そのエスノセントリズムを捨てれば、マイノリティとマジョリティは共存できるんじゃないの?

昨日に引き続き、「不真面目な元化学屋の戯言(現在法曹へ向けて学習中) - セクシュアリティ」に対する言及です。今回は、昨日書ききれなかった「性的少数者異性愛者の間の摩擦や紛争に関して、『根本的な解決などない』というのは正しいのか?」という点についてです。

寛容たれという平等主義と粋すぎた均一化は、結局の所思想の押しつけになり、マイノリティもマジョリティーも根本的な解決から離れていって締まっている気がします。根本的な解決とは、根本的な解決など無いことを認めることだと思いますがいかがでしょう

単純な平等主義と均一化が問題を解決しないことには同意します*1が、そのふたつが問題を解決しないからと言って「根本的な解決などない」という結論に飛びつくのは論理的でないと思います。
あたしは、セクシュアリティの差異による摩擦を解決する根本的な方法は、マイノリティとマジョリティのそれぞれがエスノセントリズム(自文化中心主義/自民族中心主義)から脱却してエスノリラティビズム(自文化相対主義/民族相対主義)に到達することだと考えています。このことについては、去年既にこちらのエントリで触れています。

昨日のエントリで触れたように、integralさんはご自身の「不快感」と「恐怖心」を根拠にして同性愛者を「隔離」「排除」することを紛争回避の選択肢として挙げられています。しかしそれは、まさしくこのDMISモデルで言うところのEthnocentric Stage(自文化中心主義の段階)の「1. Denial(否定)」の段階、つまりもっとも問題解決から遠いところにいる人がとる行動ですよ。ためしに上記の「BennettのDMISモデルでホモフォビアを分析してみる試み」というエントリから引用してみましょうか。


Ethnocentric Stage(自民族中心主義の段階=自分の文化の見方がすべての現実を規定する段階)の3つの段階

  1. Denial(否定)
    • Isolation(隔絶):異性愛者だけで固まる。「人間はみんなヘテロである」状態。
    • Separation(隔離):セクシュアルマイノリティのふるまいを見ないようにする。「同性愛者が教職につくことは許されない」など。

これは見事なまでにintegralさんの態度と一致します。
なるほど、このようなステージにいる方なら「根本的な解決などない」と短絡的にお思いになってしまうのも当然です。integralさんのような方々がそこから脱却してEthnorelative Stageの「3. Integration(融合)」に到達されることが、問題解決の早道だとあたしは考えます。こちらも上記エントリから引用してみましょう。

Ethnorelative Stage(民族相対主義の段階=いろいろな文化の観点から現実を見ることができる段階=共存の状態)
(引用者中略)
  1. Integration(融合)
    • Contextual Evaluation(文脈からの評価):「今、ここで何が起きているか」という文脈から物事を評価する(「この人はゲイだから/ヘテロだからこうなったのだ」という評価をしない)。
    • Constructive Marginality(肯定的に辺境人となる):文化の中心でなく端の方にいる人となり、他の文化との接点に積極的にかかわっていく。

というわけで、integralさんのようにエスノセントリズムにとらわれておいでの多くの方々が「この人は同性愛者だから他人に不快感と恐怖を与えるんだ」というような一面的な評価をおやめになって、「今、実際にここで何が起きているか」という文脈から物事を多面的に評価されるようになれば、物事は万事解決だと思います。もちろん、性的少数者の方でも同様に、「この人はヘテロだから差別的なんだ」と短絡思考に走るのをやめるとか、マイノリティだけで固まって異性愛者とのかかわりを拒否しないようにするとかの努力は必要なんですけどね。そのへんは、お互い様ということで。

まとめ

異なる性的指向を持つ人々の共存はありえる。そのためには、マイノリティとマジョリティの両方がエスノセントリズムから脱却し、エスノリラティビズムに至ることが必要である。隔絶や隔離はエスノセントリズムのもっとも強い段階で起こることであり、それらは決して問題を解決しない。

*1:でも、「寛容たれ」というのは「平等主義」とは無関係だと思いますけど。「寛容」って、「(失敗などをとがめだてしないで)他のいい面を積極的に認めようとする態度」(新明解国語辞典より)のことであって、それを平等主義とごっちゃにして否定するのは変だと思います。