「愛に性別は関係ない」の正体

以下、下のエントリ「倖田來未は男にも女にも股を開けるのかもしれないけど、同性愛者はそうじゃないのよね」を自分で読み返しながら考えたこと。
同性愛を擁護しようとする異性愛者が「愛に性別は関係ない」だの「どんな性別を好きになろうと、人を愛する気持ちに変りはない」だのというフレーズを好んで使いたがるのは、結局、異性愛者と同性愛者の差異を矮小化しようとする試みなんだろうなと思います。
異性愛者と同性愛者の最大の違いは、好きになる相手の性別です。その差異を矮小化し、「あの人たちも自分たちと同じようなもの、だから容認すべきである」という論調に持って行くのが「愛に性別は関係ない」論の正体でしょう。
基本的に、そこにあるのは「他集団を容認してあげよう」という善意です。けれども、容認する根拠として「あの人たちも自分たちと同じ」と強調したがるのは、結局、「自分たちと異質なものだったら認めてやらない」という排他性の裏返しにすぎません。
あたしが「愛に性別は関係ない」という言い回しを好きになれないのは、そういう理由からです。