マジョリティが持つ「不快感」と「恐怖心」は、マイノリティの隔離・排除を正当化するか?

マジョリティが持つ「不快感」と「恐怖心」は、マイノリティの隔離・排除を正当化するか?

上記ふたつの記事におけるintegralさんのご意見がたいへん興味深かったので、以下にいくらか引用したのち私見を述べてみます。

引用


結局の所、人間ってのは自分が理解できない者に対しては不快感と恐怖心を持ち、それを排除しようとします。それ自身は特殊なことではありません。仕方のないことでしょう。しかし、本当に問題なのは、自分が不快感と恐怖心を持っていることを隠すためにベールで覆うことです。「自分はレズやホモを見たら不快感を感じる。だけど彼ら/彼女らがやる分には好きにやってよ」という態度はどうしていけないんでしょうか?
その意味ではレズ・ホモの人たちがデモなどで大々的に活動するのも、PoliticalActとして政治的・法律的不利益の是正を求める目的ならばいいと思いますが、世間の人*1に受け入れてくれ、っていうのは大きなお世話だ、と思いますよ。従って、デモなどをするにしても「やっぱりあぁいった人達はどこか変なのね」と思われるような格好はしないことです。


sexualityはマイノリティ・マジョリティの対立が如実に出るのでわかりやすいですが、結局の処ほとんどのことはマイノリティ・マジョリティの対立があるわけで、その中で自分が選んでいるのなら、その結果としての孤は受け入れるべきだ、と思うわけです。
(引用者中略)
差異を認めるというのは私の場合は孤であることを受け入れることだと思っていますので、そういう意味では寛容とは逆方向の排除こそが差異を受け入れることになるのじゃないのかなぁ、と思ってます。寛容というのは必然的に自分のフィールドとの共有点を必要としますから、それが善意の人ならともかく、悪意の人だとゆがんだ運用をされるおそれがある。なら、排除を基礎とした理解もあって良いのではないかなぁ、と思います。要するに「大きな御世話」と言うヤツです。
こうすると、結局隔離何じゃないのか、と言われそうですが、それはそれで仕方ないのではないでしょうか。理解を超えるものを嫌悪し攻撃することが人の性なら、自主的な(強制隔離は無論否定されなければなりませんが)隔離もまた紛争を回避する一選択肢ではないか、と思います。

私見

まず、セクシュアリティは「自分で選」べるものではないというのはRy0TAさんが同コメント欄で明快に述べておられるので、ここでは触れません。「不快感」や「恐怖心」が排除・隔離を正当化するかどうかについてだけ、述べてみたいと思います。
まず、以下の「文章A」をどうぞ。あたしの言いたいことは、ほとんどこれにつきます。


同性愛者の隔離は一見「不快感」や「恐怖心」に基く「隔離」であるように思えるが、実際はそうではない。もし「不快感」や「恐怖心」それ自体が隔離の根拠ならば、それは「同性愛者」を排除する論理を必要としないだろう。それらが必要とされるのは実は逆であって、「不快感」や「恐怖心」を判断させる変数に同性愛者というカテゴリーが使用されているのである。すなわち、「不快感」や「恐怖心」等の測定は実のところ非常に困難であり明示的でないのに対し、「ゲイ」や「レズビアン」は明示化させられているので、それを「不快感」や「恐怖心」の指標とする方が簡単なのである。
(文章A)
integralさんは「人間ってのは自分が理解できない者に対しては不快感と恐怖心を持ち、それを排除しようと」するとおっしゃっています。確かにそれは事実でしょう。でも、理解できない者は怖いから排除・隔離してよいというのなら、わざわざ「同性愛者」を排除せよという論理を持ち出す必要なんてないはずです。あらかじめすべての人(当然、integralさんをはじめとする異性愛者さんもすべて*2、です)に「人に与える『不快感・恐怖心』測定テスト」でも受けさせて、成績の悪い順*3に隔離の対象にした方がよほど合理的じゃありませんか。個人間の差異を無視して、あたかも集団間の差異だけが「不快感・恐怖心」を生むかのようにふるまうのは、筋が通らないというものです。実際、異性愛者は他の異性愛者全員を完璧に理解できて、お互いにまったく不快感も恐怖心も抱かない、なんてことはないでしょう*4?。

人じゃなくてそれ以外のものを対象にして考えてみるのも面白いですね。もしintegralさんのご意見がすべて正しいのだとしたら、「犬嫌いな人もいるんだから、散歩やドッグショウでは犬らしさを隠して歩かせろ。人間用の服や靴を身につけさせて、毛並みも尻尾も見えないように歩かせるべき。犬は『不快感』や『恐怖心』を与える存在だから、世間の人に『受け入れてくれ』っていうのは大きなお世話」という理屈もまかり通ってしまいますね。

でも実際にはそのようにはなりません。異性愛者が『不快感・恐怖心』テストを受けさせられることはなく、犬嫌いな人がいても犬の散歩やドッグショウはこれまで通りに続けられるでしょう*5。結論としては、以下の「文章B」のようになります。


結局のところ、同性愛者が排除・隔離される本当の理由は、ただ単に彼または彼女が同性愛者であるという、ただそれだけなのである。不快感がどうこうという理由づけは、その排除を正当化するために持ち出された偽りの<根拠>にすぎない。
(文章B)

タネ明かし

実は上の「文章A」「文章B」は、障害者差別と性差別についての既存の文章を改変したものです。
まず「文章A」の元ネタはこちら。


……障害者差別、性差別などは一見、「能力」や「身体的条件」に基く「差別」であるように思えるが、実際はそうでもない。もし「能力」や「身体的条件」それ自体が差別の根拠ならば、それは「障害者」や「女性」を排除する論理を必要としないだろう。それらが必要とされるのは実は逆であって、「能力」や「身体的条件」を判断させる変数に性別や障害者というカテゴリーが使用されているのである。すなわち、「能力」や「身体的条件」等の測定は実のところ非常に困難であり明示的でないのに対し、「性別」や「障害の有無」は明示化させられているので、それを「能力」や「身体的条件」の指標とする方が簡単なのである。
江原由美子.(1985).『女性解放という思想』.(p87).勁草書房.)

「文章B」の元ネタは、江原氏のこの文章を引用して、加藤秀一氏がこのように述べたもの。


女性が就職から排除される本当の理由は、ただ単に彼女が女性であるという、ただそれだけなのである。体力がどうこうという理由づけは、その排除を正当化するために持ち出された偽りの<根拠>にすぎない。
加藤秀一.(1998).『性現象論 差異とセクシュアリティ社会学.(p33).勁草書房.)

つまり、integralさんのおっしゃることは、ずっとずっと昔から繰り返されてきたいろいろな差別や抑圧の構造を単純になぞっているだけだとあたしは考えます。その点が非常に残念だと感じました。

結論

マジョリティの持つ「不快感」も「恐怖心」も、マジョリティからマイノリティへの隔離・排除を正当化しません。それは排除を正当化するために後付けで持ち出された偽りの<根拠>でしかないとあたしは思います。

*1:引用者注:あたしら同性愛者だって「世間の人」なのですが(参考:大辞泉による「世間」の定義大辞林による「世間」の定義)、integralさんの脳内では異性愛者だけが「世間の人」だということになっているようですね。

*2:もしもintegralさんが異性愛者でなかった場合は、謝罪してこの部分の記述を訂正いたします。

*3:「不快感・恐怖感を与えれば与えるほど点数が低くなる」というしくみのテストだった場合の話です。念のため。

*4:同性愛者同士でも、それは同じこと。事実、東京でのレズビアンゲイ・パレードの最中に、自分が気に入らないゲイやレズビアンに向かって「パレード破壊分子は『排除』します! 『排除』します!」と高圧的に威嚇したゲイの実行委員なんてのもいましたしね。結局のところ、異性愛者が「異性愛者」という名前の一枚板でないのと同様、同性愛者だって「同性愛者」という名の一枚板ではないんです。人間の他者に対する無理解・不快感・恐怖心は、セクシュアリティという大雑把な枠だけでとらえきれるものではないと思います。

*5:もちろん、法律で定められた安全対策や狂犬病の予防接種などをきちんと行った上で、ですが。でも、それらの法律にしても、犬が「人の生命,身体又は財産に対する侵害を防止し、及び生活環境を害する事がないよう」にするためのものであって、犬に偏見を持つ人の漠然とした「不快感」や「恐怖心」を根拠とするものではありません。