ひとを嫌うことはごく自然、ひとから嫌われることもごく自然 - 「嫌う自由」または「嫌う権利」について(追記2件あり)

2009年5月23追記

タイトルだけ見て思いっきり誤読する人がいそうなので、最初に釘を刺しておきます*1

異性愛者は同性愛者に比べ圧倒的に強大な権力を手中にしています。その権力的な不均衡を正さないまま、あるいは不均衡に気づきもしないまま、異性愛者が同性愛者に対するヘイトスピーチを繰り広げることは有害である、とあたしは思ってますよ。マジョリティ(単に『数が多い人』という意味ではなく、『社会の中心にいて権力を握っている層』の意)の、マイノリティ(同じく、単に『数が少ない人』という意味ではなく、『社会の周辺に追いやられて抑圧されている層』の意)に対するヘイトスピーチは、不平等な社会制度を維持あるいは強化する方向に強烈に働くからです。以上、念のため。

以下、本編

「不真面目な元化学屋の戯言(現在法曹へ向けて学習中) - セクシュアリティ」と、そこから派生した「腐男子じゃないけど、ゲイじゃない - それでもやっぱり寛容を求めたい(コメント欄)」での議論に関して、最後の言及です。今回は、「異性愛者が性的少数者を嫌う自由(または、嫌う権利)をどう考えるか」という点について。

「生理的にホモを嫌いだと言う権利まで奪うのか」

「腐男子じゃないけど、ゲイじゃない - それでもやっぱり寛容を求めたい(コメント欄)」の議論に出てきた「異性愛者が性的少数者を嫌う自由/権利」について、うちの掲示板でビューワー様からこのような書き込みをいただきました。


integralさん的な主張は、前から気になっていたんです。
のだださんの言う「嫌う権利」、これがセクマイに対するマジョリティの言葉の中に出てきていると思います。
前は「生理的な嫌悪」「(一見)理論的な差別」「制度的な差別」は一体だった。それが、「理論」と「制度」の不当性を次第に認めねばならないことになってきて、「生理的嫌悪」が浮いて来た。
意外ですが、ある意味進歩の結果なのかもしれません。
同性愛者との共生を目の前にして、一部の異性愛者は、「生理的にホモを嫌いだと言う権利まで奪うのか」と戸惑っているのかな、と思います。本来無意識の感情的な同性愛嫌悪を客観視するためのタームだった「ホモフォビア」が、しばしば「ホモフォビアは悪い事なのか?」という感じで肯定的に使われたりするのも、そうした状況の反映なんだろうか、と感じています。
「生理的にホモを嫌いだと『言う』権利」というのは、要するに「漠然とした自分の主観だけを根拠に、マジョリティがマイノリティに対するヘイトスピーチを行ってもいい権利」ですよね。そんな権利は誰にも許されるべきではないと思います。
ただし、「生理的にホモを嫌いだと『思う』権利」ということであれば、話は別です。心の中で何を思おうと、それはその人の自由。その「思い」をわざわざ行動に出して(たとえば、わざわざ嫌いだ嫌いだと広言して他人の感情を害するとかね)他者に害をなさない限り、内心何を考えていようがかまわないんじゃないでしょうか。
というわけで、異性愛者には当然、性的少数者を嫌いだと『思う』権利はある*2と思います。

ここでもうひとつ強調しておきたいのは、だからといって異性愛者の側だけが「嫌い」な感情を抱く権利があるわけではないということ。ある異性愛者が「生理的にホモが嫌い」と口走った(あるいはブログやサイトに書いた)とたん、彼または彼女は、性的少数者から

  • 「ホモ」と平気で口走るなんて、セクシュアリティについてろくに調べたこともない間抜けだ
  • この人は自分の感情を緻密に分析せず、「生理的」という言葉でごまかしているアホだ

……と大いに嫌われる可能性があります。より厳密には、性的少数者だけでなく、セクシュアリティについてまともな知識がある異性愛者からもさんざん嫌われるでしょうね。それだけのことを引き受ける覚悟がないのなら、「嫌いだと言う権利」なんてものを持ち出すべきではないと思います。

ひとを嫌うことはごく自然、ひとから嫌われることもごく自然

ここまでの話は、「嫌われるのがいやなら、嫌うな」という意味ではありません。そうではなくて、「誰にでもひとを嫌う自由(または権利)があるが、嫌うこと同様、嫌われることもまた自然」という話です。

ここに、『ひとを<嫌う>ということ』(中島義道、角川文庫)という、そのものずばりの題名の本があります。

ひとを“嫌う”ということひとを“嫌う”ということ
中島 義道

角川書店 2003-08
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これは、

  • 「嫌い」という感情はごく自然である
  • 同時に、「嫌い」という感情は恐ろしく理不尽である
  • しかし、この理不尽さこそが人生であり、それをごまかしてはならない
  • 「嫌い」という感情をはじめから抑圧してしまわず、正確に見届けてゆくことが、人生を豊かにする

というテーマに沿って書かれた本であり、あたしはこれに深く賛同するものです。「生理的にホモを嫌いだと言う権利まで奪うのか」とお思いの異性愛者さんも、「ヘテロってほんとに大嫌い!」と思っているLGBTも、こういう本を参考にしてもっと「きちんとひとと嫌い合う」(カバー裏より引用)技術を磨いていくのが共存への早道なんじゃないかしら。
以下、同書よりいくらか引用してみます。(引用文中の太字は、引用者によります)


ひとを嫌うことはごく自然、ひとから嫌われることもごく自然です。あなたが姑のAを嫌うのも、妻の兄のBを嫌うのも、上司のCを嫌うのも、同僚のDを嫌うのも、隣の家のEを嫌うのも、ごく自然です。あなたが、兄嫁のFから嫌われているのも、部下のGから嫌われているのも、取引先のHから嫌われているのも、隣の息子のIから嫌われているのも、ごく自然です。これらの「嫌い」を解消することはさらさらありません。それは、人生が平板になること無味乾燥になることですから、大層もったいないこと。
中島義道.(2005).『ひとを嫌うということ』.(pp11-12).角川書店.)
すこし注釈を加えておくと、ここで中島氏は「なくそうと思えばなくせる『嫌い』を、あえて人生を豊かにするために残しておくべき」と言っているのではありません。どんなに誠心誠意努力しても嫌い嫌われることは絶対に避けられないものであり、だからこそ「いたずらに恐怖心をつのらせたり、無理やり抑圧することはやめて、その凶暴性を適当*3にコントロール」(p11)することが人生を豊かにする、というのが氏の主張です。

軽くあっさりと嫌い合ってゆけばいいのです。対立し合ってゆけばいいのです。とはいえ、その技術は意外に高度かもしれない。なぜなら、われわれは嫌いをゼロに薄めていく努力をするか、あるいはそれを無限大に増幅する方向に進むかのどちらかになりやすいから。嫌いにならないように必死の努力をするか、大嫌いにもってゆく努力をしがちだからです。
そうではなく、安全なかぎりでの低空飛行で(だから技術を要するのです)、お互いに嫌いであることを冷静に確認し合えばそれでいい。それが、どうしようもないことを認識し合えばそれでいい。「嫌い」がふたりのあいだに消滅する日が来るかもしれないが、それはまったくの偶然。変に期待しないで、淡々としていればいいのです。
中島義道.(2005).『ひとを嫌うということ』.(p35).角川書店.)

「低空飛行」のための技術として、中島氏はこんなことを書いておられます。


諸個人のどうしようもない差異を徹底的に認めてそこからスタートし、そのただ中にごまかすことなく自分を置く。ここには、個人間の微妙な差異を均一化しようとする衝動がありませんから、たえず自分と他人との距離を測りつづけることになる。そうすると、どんなに気の合った他人でも何らかの点で必ず厭なことが出てくる。それをそのまま記録する。ほとんどの人にとっては大層くたびれる生活ですが、(私のような)一風変わった者にとっては、かえって清潔で生きやすい空間です。
中島義道.(2005).『ひとを嫌うということ』.(pp36-37).角川書店.)

「差異を認める」というのは、こういう使い方をするものだと思うんですよ。「差異があるのはよくないから、なかったことにしてしまえ」と無理やり均一化する(そうして、差異から生じる『嫌い』をなかったことにする)のも、「差異があるんだから、遠く隔絶してしまえ」と個人個人で(あるいは集団ごとに)かたくなに閉じこもって「嫌い」な感情をいたずらにつのらせておくのも、異質なもの同士の共存にはまったく役立ちません。そうではなく、自分と他人との距離(つまり、差異)を常に正確に測り続けること、その上で冷静に淡々と嫌い合っていくことが肝要なんだと思います。

まとめ

  • ひとがひとを嫌うことはごく自然。ひとから嫌われることもごく自然。嫌い嫌われる自由を(または、権利を)奪うことはできない。
  • 他者との差異を徹底的に認め、冷静に淡々と(※ここで言う『冷静』『淡々』については、このエントリ内の追記をご覧下さい)嫌い合っていくこと*4が、異質な者同士の共存の早道。

追記(2007-04-07)

ここまで書いてきて「なんか足りねー、誤解されそう」と思っていた部分を、Ry0TAさんががっつり書いてくださっていました。


異性愛者が同性愛者を嫌うのは自由?そうかもしれない。

だが、integralさんの言葉に似たこんな言葉を、僕らはよく聞かないだろうか。


「自分はレズやホモを見たら不快感を感じる。だけど彼ら/彼女らがやる分には好きにやってよ」(integralさん)
「同性愛は認めてもいいよ、ただ自分の周りにはいてほしくない」
「同性愛はいてもいいよ、迷惑をかけなければ」

こういう言葉は、「もっとも」だろうか?僕はそうは思えない。

「好きにやれ」といわれても、同性愛者が社会の中で生きるためには異性愛者の協力が必要だ。「自分のそばにはいないで欲しい」という考えこそが、大勢の同性愛者のカミングアウトを妨げている。そして、「迷惑をかけるな」という、あたかも同性愛者を危険分子と見なすような色眼鏡が。同性愛者には「大迷惑」であるのだ。

「同性愛者の生存権は認める(差別者じゃないからネ)、でも自分の周りはダメ!」という発想が続くかぎり、「共生の場」はいつまでたってもできないではないか。
同性愛者と異性愛者は。お互い嫌いでも、やはり共生しなければならないのだ。
セクシュアルマイノリティに対する有形無形の差別を徐々に取り除いていくとき、「理論」や「制度」に続き、異性愛者の同性愛者に対する「生理的感情」や「意識」の処しかたにも、どこかでぶつからざるを得ないのだろう。
これは難しい問題だ。個人の「心」や「意識」の中には、誰も干渉はできないのだから。
しかし、人間たちが協定とルールを守りつつ生きてゆく場が社会であるなら、「心」と「心」の間にもなにかの協定とルールがなければならない。

引用部分以外も必見。ああ、すっきり。あたしは上の方で「冷静に淡々と嫌い合」うと書きましたが、その「冷静」「淡々」とは、まさにこのような「同性愛者を危険分子と見な」すとか、「いてもいいけど、自分の周りはダメ!」と権力(なんだかんだ言って、異性愛者の握っている権力は絶大ですから)を振り回すとかいう凶暴性にまで至らぬように「嫌い」な感情を制御*5した状態をイメージしておりました。

*1:釘を刺しても無駄だとは思うんですけどね。タイトルだけ読んで脊髄反射で「嫌う権利など許さない! みやきち死ね!」みたいにあたしを「嫌う」人がゾロゾロ出て終わりだとは思う。

*2:そうは言っても、「ホモフォビア」は悪いことに決まってますけれど。接尾語"phobia"が示すとおり、これは「『高所恐怖症(Acrophobia)』や『閉所恐怖症(Stenophobia)』にみられるような、『一種病的な筋道の通らない恐怖感や嫌悪感』(phobia)を同性愛者に対して抱くこと」を指す語ですから、良いことだとはとても言えないと思います。

*3:原本を読んでいただければすぐわかるかと思いますが、ここで言う「適当」とは「いいかげんであること」という意味ではなく、「ある状態・目的・要求などにぴったり合っていること」の方の意味だと思います。参考:大辞林による「適当」の定義

*4:もちろん、もしも好き同士になれるのなら、わざわざ嫌い合う必要はゼロですが。

*5:んで、ほんとうに真摯に自分と他者との距離を測り続けることができれば、こんな凶暴性にまで至らぬように「嫌い」を分析したりコントロールしたりすることが可能だと思うんですよ。「みんなが『ホモはキモイ』っていうからキモいんだ、だからそばに寄るな! ギャー!(パニック)」っていうのは、他者(同性愛者)との距離を正確に測るどころか、「みんな」の方にしか顔を向けていない状態だと思います。