なぜ百合マンガ/レズマンガにおいて偽ちんこは邪道なのか

下のエントリでは「レズビアンは指以外も使う」と書きましたけど、フィクションとしての百合作品/レズ作品を見るときには、あたしは「偽ちんこは邪道だっつってるんでしょうがあー!!!」という雪(『ULTRA SWORD』林家志弦コアマガジン/感想はこちら)の台詞にほぼ同意です。ちょうど今日自サイトの掲示板に書いた文章が説明に使えそうなので、以下引用してみます。


♀♀物の中で、現実世界の重力を振り切ってぽーんと跳躍してるものが「百合」でありファンタジー(参考:『ファンタジーとしての同性愛』)なんじゃないかなと思うんですよ。で、あたしは地べたに住んでるガチな人であるけれども、ファンタジーはファンタジーとして十分楽しませてもらっている、という感じですね。
それはちょうど、別に日本人でも映画『キル・ビル』や『ブラックレイン』を楽しめる、というのと似ています。そりゃあ『七人の侍』とか見た方が「日本らしい」と感じるのは事実でも、フィクションとして楽しむ分には何でもありだと思うんですね。
「何でもあり」とは言え、跳躍力が足りなくてフィクションになりきれていない作品はやっぱり問題なわけです。創り手がほとんど異性愛者だということもあるのでしょうが、フィクショナルな世界における偽ちんこは、ただの「異性間セックスの模倣」っぽい色あいが強い気がします。具体的に言うと、「ちんこに頼って愛も愛撫も足りないつまんなそうな男女セックス」の模倣になっちゃってることが多いんです。こうなると、現実世界の重力を振り切るどころか、ださいヘテヘテ帝国の土の中に頭までずっぽり埋まってる感じで、フィクションとして楽しむ余地がまるでないんですよ。だから、百合マンガ/レズマンガに偽ちんこが登場するのは萎え要素なんですね、少なくともあたしにとっては。
ただし、愛や愛撫が足りてるセックス描写なら、偽ちんこもありだと思います。サフィズムのあの人とかね。あと、あの蜘蛛の人とかね。つまり、雪さんの言うところの「道具にばかり頼って心が全くこもってない」近頃の攻っ娘、というパターンに成り下がっていなければ、そういう描写もありなんじゃないかと。個人的な嗜好だと言われればそれまでなんですけど。