レズビアンは百合やレズビアンにたいして妄想を持たずつねにリアルの側に立つのか。(んなこたーねーよ)

女は女や少女にたいして妄想を持たずつねにリアルの側に立つのか。

以下は千野帽子氏の「文藝ガーリッシュ・お嬢さんの第二の本箱」(中日新聞夕刊で連載中)からの引用です。「男はキタナイ・少女はキレイ」みたいな思い入れのもとに百合物を漁っている女性には、かなり耳が痛い内容なんじゃないかと思います。

男が女や少女にたいして幻想・妄想を持っているとはよく言われるところですし、厳然たる事実でもありますが、じゃあ女は女や少女にたいして妄想を持たずつねにリアルの側に立つのか。男がハードボイルド小説や池波正太郎ライトノベルで幻想の「男・少年」像を持つように、少女漫画的なもの(といってもいろいろあるけれど)を媒介とした女読者の「少女」像だって、「内なる自己像」という自己愛的な妄想です。(引用者中略)女性読者が自分の実体験を根拠に、川端康成ら男性作家の女人像を「所詮男のファンタジー」と一蹴するのは簡単です。けれどそのとき彼女が、少女漫画的少女像もまた妄想であることを隠蔽するならば、それはちょうどストーカー行為を憎みながら「純愛ドラマ」には泣いちゃうのと同じようなダブルスタンダードとなりましょう。
千野帽子.(2006年12月17日).「文藝ガーリッシュ・お嬢さんの第二の本箱 - 最後から二通目のお手紙」.中日新聞夕刊.p.7)

レズビアンは百合やレズビアンにたいして妄想を持たずつねにリアルの側に立つのか。

さて、ここからが本題。
「男はキタナイ・少女はキレイ」的な発想は皆無なわたくしですが、千野氏の上記の文章を以下のように置き換えてみて、別の意味で「いろいろと自戒しなくては」と思いました。

ヘテロが百合やレズビアンにたいして幻想・妄想を持っているとはよく言われるところですし、厳然たる事実でもありますが、じゃあレズビアンは百合やレズビアンにたいして妄想を持たずつねにリアルの側に立つのか。男がハードボイルド小説や池波正太郎ライトノベルで幻想の「男・少年」像を持つように、百合・レズビアン的なもの(といってもいろいろあるけれど)を媒介としたレズビアン読者の「少女」像だって、「内なる自己像」という自己愛的な妄想です。(引用者中略)レズビアン読者が自分の実体験を根拠に、『ストロベリー・パニック!』などのヘテロの創り手による百合・レズビアン像を「所詮ヘテロのファンタジー」と一蹴するのは簡単です。けれどそのとき彼女が、レズビアン作家の描く少女像もまた妄想であることを隠蔽するならば、それはちょうどストーカー行為を憎みながら「純愛ドラマ」には泣いちゃうのと同じようなダブルスタンダードとなりましょう。

創り手だろうと受け手だろうと、男だろうと女だろうと、そしてセクシュアリティが何であろうと、誰しもフィクションに対しては何らかの幻想・妄想を持っているはず。レズビアンが百合・レズビアン作品を見るときだって、それは例外ではないはず。あたしはよく「ガチな人から見るとこれは変」という言い回しでヘテロさんによる百合作品・レズビアン作品を批判しますが、それだってもっと正確に言うと「ガチな人であるわたくしの抱く妄想と、ヘテロな人である創り手さんの抱く妄想との間のギャップが大きすぎて、この作品にわたくしは共感できません」という個人的感慨に過ぎないわけですね。今後、レビューなり感想文なりを書くときに、このことを忘れないようにしなければ、と思いました。