ブログの記事は新聞記事のように読まれる

新聞記事のように、というのは、つまり、こういうことです。

  1. 書いた人が誰であるかはあまり気にされない。
  2. 他の記事との関連もほとんど気にされない。

全部がそうだとは言いませんが、ブログのエントリというものはこういう風に消費されがちと思うんです。逆に言えば、「ブログ」を書くときにはこうした読まれ方をされることを想定して書くのがいいのかもしれません。
困るのはブログツールを使って書いている「日記」までもこうした読み方で判断してしまう人が多いことです。不特定多数に公開するための日記は大げさに言えば「日記文学」に属するものであり、文学というのはそれが書かれた背景を無視してたらあんまり良くは理解できないものだと思うんですけど。
例を挙げましょう。フランス文学を読むときに、『トリスタンとイズー』(作者不詳)と『ゴリオ爺さん』(バルザック)を比べれば、どうしたって後者の方がわかりやすく読みやすいわけです。でも、だからと言って、作品をなんとなく読んだときの印象だけで「バルザックの方が優れている」と速断するのは間違っています。書かれた社会と、書いている人間の立場が違うからです。
『トリスタンとイズー』が書かれたのは12世紀。人口の90%以上を占める農民は字が読めないという時代でしたから、この時代の文学作品の書き手は貴族階級でした。貴族ですから、生活の糧として書いてはいません。自分が満足できればいいわけで、読み手が途中で飽きようとどうしようと構わなかったわけです。
一方、『ゴリオ爺さん』を書いたバルザックは19世紀に活躍した作家で、農民出身です。作品が売れなければ即収入に差し障る立場だったので、お話の最初から読者をひきつけてとにかく買わせる必要がありました。だからバルザックの作品はたいへん読みやすく、面白いわけです。
つまり、『トリスタンとイズー』と『ゴリオ爺さん』のわかりやすさの差は、作者の力量によるものではなく、作品を売って生計をたてる必要があったか/なかったかの差異によるものなんです。そのへんの背景を知らずに、自分が漠然と受けた印象だけで文学作品を論じることはできません。論じてもいいけど、恥をかくことになります。
ブログが大流行なのはいいけど、それにつれて、なんでもかんでもブログ的に、つまり「新聞記事のように」ひとつのエントリだけを読んでわかった気になっちゃう人も増えてるような気がします。単に文字をたくさん読むのが嫌いな人たちなのかも知れないけど、そういう読み方だけでは見落とすものも多いよと、ここで小さな声で言ってみます。