「この作品はよいか、よくないか」という話ができない人たち

百合レビューを数百本も書いていると、たくさんの反論に出くわします。「この作品はこれこれの理由でよくない」というレビューを書いたとき、もっともたくさんの反論が寄せられます。不思議なのは、そういった反論を読んで「なるほど、この作品は実はこんなに素晴らしいものだったのか!」と目を開かされることがめったにないってこと。反論者さんたちがプッシュする作品のよさ、おもしろさが、なかなか伝わってこないんです。変だ。あんなに熱心に反論してくださっているのに、どうしてだ。

……とつらつら考えていたのですが、今日謎が解けました。レビュアーと反論者とでそれぞれちがう論点(問いの立てかた)で話をしているから、会話が噛み合わないんです。論点の違いというのは、つまりこう。

  • レビュワーの論点:「この作品はよいか、よくないか」
  • 反論者の論点:「オマエ(ここではレビュアーを指します)はよいか、よくないか」

「オマエはよいか、よくないか」論というのは、たとえばこういったものです。

  • 「オマエは主観ばかりだ!」(ちなみに、どこがどう主観なのかとか、なぜ主観を書いてはいけないのかはめったに説明されない)
  • 「説が薄っぺらだ!」(ちなみに、どこがどう薄っぺらいのかとか、なぜ薄っぺらい文を書いてはいけないのかはめったに説明されない)
  • 「長すぎて読めねえよww」(短く書けないオマエが悪いと言いたいらしい)
  • 「オマエはことばづかいが悪い!」(いつから道徳教室の先生になったんですか)

レビュアーと反論者とでまったく違ったテーマの話をしているわけで、だから作品についての分析も考察も深まらず、新しい発見が少ないんです。ああもったいない。

ひょっとしたら、反論者の皆さまがたの頭の中にはこうした図式があるのかもしれません。

  • 前提1:このレビュアーは、この作品はよくないと言っている。
  • 前提2:このレビュアーは(これこれの理由で)よくない。
  • 結論:よって、この作品はよい。

しかし、前提1と2からこの結論は導けません。「この作品はよくも悪くもない」という可能性が否定できないからです。

レビュアーの「この作品はよくない」という主張に反論したいのであれば、「この作品はよいか、よくないか」という論点に立って、

  1. 相手の主張と反対の主張を論証する(『この作品はよい。根拠はこれこれこうである』と力の限りマンセーレビューを書く)
  2. 相手の主張を支える論証を切り崩す(『レビュアーの論拠はここがこのように間違っている。よってレビュアーの論証は否定される』と反証する*1

のどちらかをおこなうしかありません。つまりはアリストテレスが『弁論術』で述べた、「アンティシュロギスモス」か「エンスタシス」かのどちらかしかないんです。そのどちらの方法もとらずに「オマエはよいか、よくないか」論に終始するだけというのは、結局その作品のよさを世に伝えるつもりがないか、伝える力がないということなのでは。諦めんなよ! 諦めんなよお前! どうしてそこでやめるんだ、そこで!! もう少し頑張ってみろよ! 周りのこと思えよ、その作品を応援してる人たちのこと思ってみろって! あともうちょっとのところなんだから!

*1:ただしこの論証切り崩しタイプの反論は「相手の論証を否定はするが、相手の主張そのものを否定することはできないし、ましてこちらの主張の正しさを論証するものでもない」と、宇都宮大学教育学部教授の香西秀信氏は述べています。(『反論の技術―その意義と訓練方法』 (オピニオン叢書)p. 13.)。たとえば、ある中学生が「三角形の内角の和は180度であることを証明せよ」という数学の問題でまちがった論理展開をしたとしても、「三角形の内角の和は180度である」という主張そのものが誤りだは言えないし、ましてや「三角形の内角の和は360度だ!」という主張が正しいと言えるわけでもないということです。そういう意味でこのタイプの反論には限界があり、ことレビューという分野ではマンセーレビューの方が有効なんじゃないかと思います。