ロジャースとハマースタインの『シンデレラ』を見ながら考えたこと
遺伝的にありえない『シンデレラ』、面白いよ!
今朝CSでロジャースとハマースタインのミュージカル版『シンデレラ』をやっていたので、楽しく見てました。
この『シンデレラ』で最高に面白いのは、キャストが人種のるつぼ(より正確には、サラダボウル)なことです。
- シンデレラ:アフリカ系
- 継母:白人
- いじわるな2人の姉:片方が白人、もう片方がアフリカ系
- 妖精の教母様:アフリカ系
- 王子様:フィリピン系
- 王様:白人
- お后様:アフリカ系
……という、「遺伝的にありえねー!」と思うようなキャスティングが、クラシカルなおとぎ話にわくわくするような新しさを添えています。アフリカ系のシンデレラとフィリピン系の王子様が舞踏会で幸せ一杯に踊り、それを白人の王様とアフリカ系のお后様が喜んで眺めている光景なんて、見ていてすげー楽しいです。面白いこと考えたなあ。
で、ここからが本題。
さて、話はここからが本題です。上記のキャスティングや舞踏会の様子の説明を読んで、「そうよねー、シンデレラって言えばもともと全員白人のお話だもんねー」と思った方、手を挙げてー。……はいオッケーです、手をおろしてくださーい。
シンデレラは本来、白人のお話ではありません。あれはもともと中国の民話です。考えてみてください、なぜ王子様は足の小さな娘を選ぶんですか? なぜシンデレラの姉たちは肉切り包丁で自分のかかとやつま先を切り落としてまで気に入られようとする*1んですか? それは、中国には纏足の習慣があって、「足が小さければ小さいほど美人」という概念がお話のベースにあったからです。
では、なぜ現在では「シンデレラといえば白人の話」という概念がまかり通っているのか。それは、今の社会では白人が世界の中心にいて、お金と権力をいちばんたくさん持っているからです。
民話というものは世界中に伝播しながら様々に変化し、いろいろなバージョンが生まれます。『シンデレラ』も例外ではありません。でも、現代社会でカネとチカラと文化の中心に居座ってるのは白人だから、白人が白人のために作った白人バージョンの『シンデレラ』だけが、異様にたくさん流通しちゃったんですよ。そして今では非白人までもが『シンデレラはもともとヨーロッパの白人のお話』と思い込んでいるという有様*2。本当はちがうのに。
何がいいたいかというと、あたしらが普段なんとなく「これが当たり前」「これが常識」と思っていることは、単に、そのとき世界の中心にいる人たちが好む「当たり前」や「常識」にすぎなかったりするってことです。世界の中心にいるのが白人だから、『シンデレラ』は白人のためのおとぎ話にされてしまった。それと同じように、今世界の中心にいてカネとチカラを独り占めしているのが異性愛者だから、「非異性愛はスティグマ(『汚名』『恥辱』『不名誉』)」という異性愛者好みのおとぎ話*3ばかりが異様にたくさん流通しているということも必ずあると思います。あたしが最近のエントリで話題にしている倖田來未やNTTドコモの件にしたって、結局、問題の根本にあるのは愛とか人道とか差別心とかじゃなくて、「今カネとチカラを握っているのは誰なのか」ってことなんですよね。そこは忘れちゃいかんな、と、この楽しい*4『シンデレラ』を見ながら思ったことですよ。
*1:お子様向けの版では削られてますが、そうでないバージョンにはいじわるな姉が包丁でかかと(または、つま先)を切り落として無理矢理上履き(『ガラスの靴』というのは後から作り出されたバージョンです)をはき、血がにじみ出てしまってシンデレラでないとばれるシーンがあります。「小鳥の歌でばれる」というパターンもありますけど。
*2:あたしの中国人の友人さえ「中国の話だなんて知らなかった」と言ってました。
*3:もちろん、全ての異性愛者がそうしたおとぎ話を好むという意味ではないですよ。そういう異性愛者が多い、ということです。「多くなんかない!」とお思いのかたは、試しに周囲の異性愛者全員(家族や上司や幼馴染や行きつけのお店の人やその他いろいろ、とにかく全員)に『私は実は同性愛者です』『性同一性障害です』などと言って実験してみるといいと思います。
*4:キャスティングが遺伝的にありえないだけじゃなくて、音楽もすごいのよ、これ! なんたって妖精の教母様がホイットニー・ヒューストンで、継母がバーナデット・ピータースなんですもん! うちに一応北米版DVDはあるんですが、やっぱり日本語字幕版も出してほしいです、とっても。