浅羽莢子氏のご冥福をお祈り申し上げます

翻訳者の浅羽莢子氏が亡くなられたそうです。(訃報のニュース記事は見つけられなかったのですが、上記の日本SF作家クラブ会員名簿では既に物故会員の欄に入っています)

今日の下のエントリであげたジョナサン・キャロルのみならず、ドロシー・セイヤーズタニス・リーも『火吹き山の魔法使い』も、みんなみんな浅羽氏の訳で読みました。早すぎるご逝去、悲しいです。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

これまであたしは浅羽氏のお名前を拝見すると反射的に「あっ、好きな翻訳者さんだ」とは思うものの、「こういう文体の方だ」という固定的なイメージはほとんど持っていませんでした。これはファンとして失礼なことだろうか、と悩みつつ氏のブログの過去ログを読んでいると、こんな文章に行き当たりました。

訳をほめていただくと、こちらも人間なのでうれしくて舞い上がります。

でも、ひとつご注意申し上げたいのは、
小説家の文章はその人のものだけれど、
翻訳者の文章は必ずしもそうではないということです。
もとになる原文があっての翻訳なので、
翻訳者それぞれの文体があっても、
それは原作の文体によって変化します。
ユーモアミステリのあかるくさらっとしたテンポの良さ、
都会ホラーのそぎ落とされ、洗練された文、
異世界ファンタジーの、凝りに凝った宝石細工のような擬古文。
センテンスの長さ一つとっても、同じわけがありません。

従って、同じ翻訳者が手がけても、
Aという作家の本と、Bという作家のとでは、
文章のリズム等が異なるのがあたりまえで、
どの作家の作品も同じようになってしまったら、
翻訳としてはむしろ失敗と言うべきなのです。なぜこのようなことを書いたかと言うと、
わたしの手がけた作品は全て読むと言って下さるかたが、
たとえばキャロル作品とタニス・リー作品、
ジル・チャーチルの文体とマーヴィン・ピークのそれの、
訳文の違いにショックを受けられるといけないと思うからです。

「同じ人間が訳したとは思えない」と言われることがあるとすれば、
それは翻訳としては大成功なのかもしれませんが、
読んで下さったかたから見れば、
「あっちはよかったのにこっちは肌に合わない」と、
がっかりされることもあるでしょう。

「同じ人間が訳したとは思えない」ーー
翻訳する側としてはそうあってくれることを願っており、
どこかに「翻訳者Aのしるし」のようなものが共通してうかがわれるとしても、
それは本人が消そうと努力したにもかかわらず、
にじみ出てしまったものだと思いたいところです。

一方で、「誰が訳しても同じ」と言われるのも悲しいものがあり、
個性を消しながら出したいという、
矛盾した思いを常に抱えているのが翻訳という職業なのかもしれません。

あたしが固定した文体のイメージを持たず、氏のお名前を目にするたびにただ「好きな翻訳者さんだ」と感じてニコニコしていたのも当然というわけですね。プロってこういうものなんだなあと思いました。これまで素晴らしい翻訳をありがとうございました、天国でゆっくりお休みになってください。