書評は読み手のためにある(出版社や作家のためでなく)
書評は読み手のためにある(出版社や作家のためでなく)
ここいらあたりのお話ですが。
作り手側も人間ですので、書かれるなら宣伝になることを書いてほしいし、書評は的を射ていてほしいし、それもできることなら誉め言葉であってほしいと願っています。いいものが描けたときは話題にしてほしいし、調子が悪かった時はスルーしてほしいのです。この部分、心情としては理解できるのですけれど、自分がサイト内でレビューを書くときには「的を射ていてほしい」「いいものが描けたときは話題にしてほしい」のふたつ以外の「〜ほしい」には必ずしも応えられそうもないなあ、と思いました。なぜなら書評は読み手のためのものであって、出版社や作家のためのものではないと考えているからです。
以下、書評家のトヨザキ社長こと豊崎由美氏の『どれだけ読めば、気がすむの?』(アスペクト)から何箇所か引用しつつ、自分の意見を述べてみます。
書評は誰のためにあるのか
書評は誰のためにあるのか。某ミステリー作家が自分のサイトで「書評は作家へのオマージュになっていればいい。創作の苦労を知っている同業者の批評以外、自分は耳を傾けないし、必要ともしていない」みたいな意見を発表していたけれど、それは傲慢というべき。そもそも、(文芸誌に掲載されている文芸評論は別として)大抵の書評は作者に向けて書かれてはいないからだ。いや、あるにはある、いわゆる“贈与”という形の書評が。たとえば福田和也が石原慎太郎を評する時のような。でも、それはいわば中元や歳暮の類であって、書評と呼べる代物ではないから問題外。一方、励ましという意味で作者のほうを少しだけ向いた書評もある。もっと読まれるべき傑作なのに、なぜか売れない。そんな本を応援したくて、ちょっと媒体には合わないかなと思っても紹介してしまう。そういうことはある。わたしも時々しちゃう。
でも、それでも書評が誰のためにあるのかといえば、やはり読者のためなのである。作者へのオマージュでしかない贈与行為は書評とはいえないんですよ、ミステリー作家のMさん。書評家はあなた方作家の顔色うかがいのために存在しているわけではない。奉仕すべきは読者に対して、なのだ。「こんな素晴らしい本が出た。どこが素晴らしいのか。なぜ、薦めるのか」「こんなクソみたいな本が売れている。どこがダメなのか、なぜ、この本を否定するのか」をわかりやすく、できれば芸のある文章で読者に伝える。そのことのために、すべての書評家とレビュアーは存在しているのだ。
(豊崎由美. (2007). 『どれだけ読めば、気がすむの?』. アスペクト. pp286-287. )
まず、ここに全面的に同意です。だいたい、既にお金という対価を払って作品を読んでいるのに、書評を書くときにさらに出版社や作家への贈与行為(だけ)を期待されても困ってしまうというものです。書評は出版社や作家に向けて書くものではなく、読み手に向けて書くものなんですから。
好き作家さんを応援しない、という意味ではないんですよ。好きな作家さんを応援するためには積極的にアンケートハガキも書くし、ファンメールも書くし、Web拍手だってしていますよ。けれども、自分のサイト内でレビューを書くのはそれとはまた別の話です。ひょっとしたらネット書評家/レビュワーの中には、100パーセント作り手側に向けたつもりでネット上に書評/レビューをupする方もいらっしゃるのかもしれませんが、(だとしたら、どうして最初から直接出版社や作家さん宛にファンレターなりメールなりを送らないのか理解できませんが)少なくとも自分は違う。インターネットという、作り手より読み手が圧倒的に多い空間にわざわざレビューを上げるのは、当然ながら作り手よりもむしろ読み手に向けた行為なんです。
書評とは、作品の読み手(既読の読み手でも、未来の読み手でも)に向かって「ある作品がよいかわるいか」を論じるものだと思います。書評は、作り手の方だけを向いたコミュニケーションツールでも、ましてや作者宛の「暮れの元気なごあいさつ」でもありません。作り手側が褒められた方がモチベーションが上がるというのはもちろんその通りでしょうが、その褒める(だけの)行為を「書評」という形態のものに期待すること自体が変だと思います。作り手側への暖かい励ましについては、「書評」以外の、たとえばファンメールやファンレターがもっと気軽にたくさん書けるようなシステムを整備して*1、そちらに期待した方が早いのではないでしょうか。
批判が許されないのは、読み手にとっては益にならない(出版社の利益にはつながっても)
どんなに偉い人が褒めていようが貶していようが、どれほど有名な作家や作品だろうが、売れていようがいまいが、そんなことと小説の善し悪しは別。それが、この本(引用者注:倉橋由美子著『あたりまえのこと』朝日新聞社)で説かれている“あたりまえのこと”の骨子なのです。ところが、そのあたりまえがなかなか言論化されないのが、この国の出版界の現状であり実状です。たとえば、どう好意的に読んでも褒めるところを探すのが不可能な『失楽園』の批判が許されない。なぜか。渡辺淳一が素晴らしい作家だから? 違います。渡辺淳一が出版社に利益をもたらしてくれる作家だからです。
(豊崎由美. (2007). 『どれだけ読めば、気がすむの?』. アスペクト. pp294-295.)
あら不思議、『失楽園』「渡辺淳一」の部分に適当なライトノベルなり漫画なりの題名と作者名を当てはめれば、それがそのまま「ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記―」さんの主張になりはしませんか。「調子が悪いときはスルーしてほしい」というのは、つまりはそういうことでしょう? けれども、「調子が悪いとき」の作品を読んで、「どこが/どのように/なぜ悪いのか」を分析し、整合性ある文章で読者に情報提供していくのもまたレビュワーの務めだと自分は思います。良いものだけを口をそろえて褒め、悪いものは「なかったこと」にしてしまうというのは、レビュワーじゃなくて幇間のすることでしょう。そして、幇間の発言「だけ」に満ち溢れたインターネットなんて、情報源としてはほとんど役に立たないとあたしは思っています。たとえば@コスメや価格.comが「製品への褒め言葉しか書いてはいけない。買ってみてダメだった商品の話は一切禁止」というサイトであったら、果たして今ほど役に立つでしょうか。立ちませんね。それと同じことです。本や漫画だけを聖域化する理由はありません。
あと、もうひとつ。仮に「批判は作家のやる気を殺ぐから褒め褒め書評だけを書きましょう、良くない作品はスルーしましょう」というお約束がインターネット標準となったとしたら、今度はそういう作家さんは「僕/私の作品がスルーされている。ということは駄作と思われてるんだよウワァァァァン!」となってやっぱりやる気を失い、編集者さんが「作家のモチベーション維持のため、駄作だと思っても褒めてほしい」と言いだすことになりはしませんかね。きりがないと思うんですよ、こういうの。
まとめ
- 書評は作り手側に向けて書くものではない。読み手側に向けて書くものである。
- 褒め言葉とスルーだけで構成された書評/レビューサイトは、読み手にとって実用度が低い*2。
- だから、書評に作り手宛のエールや励まし「だけ」を期待するのは間違い。
- 作家宛の励ましが欲しいなら、書評ではなく、何らかのコミュニケーションツールを用意してそちらに期待するべき。