一部の人が百合作品に「お姉さま」という概念を持ち込まないと気が済まない理由(追記あり)

百合作品に、つまり女のコ同士が好きあったりイチャイチャしたりする作品に「お姉さま」という概念を持ち込まないと気が済まない人*1ってのがいますね。彼ら/彼女らの発想って、実は伊丹十三がエッセイ「お兄様と寝る」(『ヨーロッパ退屈日記』収録)で書いてたスペイン人のこれ↓と同じなんじゃないでしょうか。


(引用者注:昔のスペインでは教育費が高くて国民の教育的水準が低かった、という話の中で)字の読めない人が多いから、すべての映画はスペイン語に吹き替えられている。しかもこの国はカトリックが強いから、倫理的にまずいところは、徹底的に切られ、あるいは、別のセリフに吹き替えられてしまう。
たとえば、結婚してない恋人同士が、映画の中で一つのベッドに寝ることは許されないから、そんな場合は、
「一時間前に結婚したなんて、ほんとに夢みたいだね。」
とか、
「お兄様と一緒に寝るの、子供の時から随分久し振りだわ。」
とか、吹き替えるセリフで変えてしまうのです。いや、これは本当の話です。
伊丹十三. (1976). 『ヨーロッパ退屈日記』. 文藝春秋. pp44-45)

女のコ同士の友情以上に親密な関係に「姉妹」(※血がつながってもいないのに)というレッテルがないと落ち着かない人というのは、これと似たようなものなんじゃないでしょうか。つまり、そういう人って、同性愛が倫理的にまずいとか許されないとか、またはそこまではいかなくても「同性愛にはなんか抵抗がある」とか考えているからこそ、「姉妹」(※血がつながってもいないのに)という概念を持ち込んだ「吹き替え」作業がなければ安心できないんじゃないでしょうかね。一言で言ってしまえば、ホモフォビアだってことになりますが。

個々の作品そのものに関しては、「お姉さま」という装置を使おうが使うまいが、面白ければそれでいいとは思いますよ。でも、「百合と言えばお姉さまよね!」と直結して思考停止し、それ以外のパタンの作品を忌み嫌う(意識的にせよ、無意識的にせよ)人には要注意だと思います。世界を自分の狭い視野に合わせて「吹き替え」なければついていけない、リテラシの低い人だって可能性が高いですからね。

ちなみにスペインでは2005年に同性婚を合法化する法案が成立し、保守派の反対を受けながらもサパテロ首相ががんばっています。さてさて、女のコ同士の濃密な関係を「姉妹」という概念で吹き替えないと耐えられない日本の一部の百合ヲタさんは、いつまで低リテラシのままでいるんでしょうかね?

*1:2008年2月6日追記:「『お姉さまという概念を持ち込まないと気が済まない人』という表現が曖昧だったので、補足。「女のコ同士の友情以上にいちゃいちゃラブラブな間柄を『疑似姉妹関係』という枠組みで表現した作品を偏愛し、そうじゃない作品を『そこまでいったらレズじゃんキモー』などと言って忌避する人」、ぐらいの意味です。つまりは、「『レズって女子校でお姉さまーとか言ってるんでしょおー?』とか『レズって男役と女役に分かれるんだよね?』とか言っちゃうバカと同じく、女性同士の親密な関係を『姉妹』とか『男女』みたいな異性愛規範と矛盾しない役割モデルに突っ込まないと頭がついていかない人」のことを指します。