知らないものは、見ても見えない

生け花の師範をしている知人と、春先に散歩したことがあります。家々の庭に咲き乱れる花を見ながら2人で春を満喫しておったのですが、花に関する知識ナッシングのあたしに比べ、知人の感動の仕方の詳しいこと詳しいこと。知識があるとないとで、世界の見え方がこんなに違うんだってことがとても興味深かったです。
同じ花を見てもあたしは「あー、きれいな花……(でも名前すら知らない)」としか認識できないのに、知人の方は、「○○○(花の名前)がもう咲いてる! やっぱり今年の春は暖かいんだね」と喜んだり、「あの△△△、珍しい色だなあ。きっとこのお家の人が好きで、自分で増やしたんだね」と推測したり、「あの◎◎◎、すっごく上手に咲かせてある! 普通なかなかあんな大きな花はつけないよ」と感心したりと、たいそう具体的に楽しんでるんですよ。一緒に歩いていると、ひとりで歩いていたら絶対に気づけないことがいろいろわかって、面白かったです。
これはつまり、あたしの目には全部ひっくるめて「花」としか映っていないものが、知人の目にはそれぞれ固有の名前と性質を持ったスペシャルなものとして詳しく認識されていたということですが、こういうことは何にでも起こりうるものだと思います。自分の少ない知識だけで「これは『花』。以上、認識終わり」などと大雑把に決め付けて終わっていたら見えるものも見えなくなってしまうわけで、それってすごくもったいないことなんじゃないでしょうか。世界の切り取り方*1は、なるべくたくさん知っていた方がいいに決まってますから。
というわけで、あたしは今でも何かに詳しい人の話を聞くのが大好きです。音楽をやってる人から難曲のどの部分がなぜ難しいのかを語ってもらったり、調理師の友人から伊勢海老とオマール海老の違いを教えてもらったり、写真マニアの友人から「いかに写真が真実を写さないか」を話してもらったりするのが好き。自分ひとりでは見えない風景が、その道に詳しい人のほんの一言ですぱーんと眼前に開けてくるのが面白くてたまりません。最初から「自分に見えないものは存在しないのだあっ!(または、「存在しても重要ではないのだあっ!」)」などと決めつけたり、「自分より知識がある奴なんかと接したくない!」と耳をふさいだりして過ごすなんて、時間と人生がもったいなさすぎます。そんなヒマがあったら、少しでも多くの先達の声に耳を傾けて「へー」「すごーい」「そうだったのか!」とアホの子のように感動していたいと思う次第です。

*1:日本人が「雪」としか呼ばないものを、イヌイットは数十種類に識別すると言います。逆に、英語では"yellowtail"の一語で済まされてしまうブリを、日本人は出世魚としていろいろな名前で呼び分けます。いろんな「世界の切り取り方」を知るということは、つまりは異文化を知ること/異文化から見た自文化を知ることなのだと思います。