竹田さんの話続き

※以下、ネット上で「竹田さん」することの是非の続きです。

念のためにここに書いておきますが、前エントリは、何らかの記事からの連想で記事を書くのがいいとか悪いとかという話ではありません。あくまで、

ネット上で何か書くときには、「自分は、この記事で誰と対話しようとしているのか?」ということを常に念頭におかなきゃなあ、と思いました。
ということですよ、前エントリの結論は。(※結論だからこそ、最後のパラグラフのおしまいの方にそう書いたわけですね)
つまり、どこかのエントリに触発されて記事を書くとき、

  1. 元記事の書き手に向かって書くのか
  2. 元記事はあくまでエントリを書く「きっかけ」として、自分のところの閲覧者に向かって書くのか
  3. 1と2の両方であれば、その比は何対何ぐらいなのか

を考えないと、ただの「文脈無視で突然痛い自分アピールを始める人」に成り下がってしまいかねないのではないか、ということです。

と思ったら、id:Good_Hopeさんがすっぱりとまとめてくださっていました。

要は相手の話に興味をもっているのか、それとも自分が語りたいだけなのか、ということだと思う。相手の話に興味があれば自然と「それでそれで?」みたいに聞き返す形になるけど、相手に興味がないと自分語りになっちゃう。

これですこれです。要するに、相手の話に興味があって何らかのキャッチボールをしようという意図あってのトラックバックなのか、相手の主張なんかどうでもいい、文脈もどうでもいい、俺の話を聞け! というトラックバックなのかで、元記事の書き手の受ける印象はすごく変わってくるんじゃないかと思うんですよ。で、どうせなら前者のようなトラックバックをするようにしたいと「自分は」思う、ということです。

「俺の話を聞け!」であっても、どこかの記事に触発されて思ったことを「自分の閲覧者に向けて」語るのなら別に何をやろうと構わないと思うんです。でも、前エントリで書いたように、元記事を書いた人に名指しでトラックバックしてまで、つまりわざわざその人やその人のサイトの閲覧者に向かってまで「元記事の文脈はどうでもいいが俺の歌を聴けボエーーーー★」とやる*1のはどうなのよ、と個人的には思うわけです。その前に、「自分は相手のこと無視してないか?」「相手をちゃんと人間扱いしてるか? ただの話のダシ扱いにしてないか?」と立ち止まって考えるぐらいはしたいなあと。

そう思ったので、自分がロスタイムに点入れたとかいう自慢話を、目の前の相手に向かって文脈無視でおっぱじめている(よく見るとその前の発言でも『ぼくなんか』とどこか自慢そうですね)「竹田さん」を悪い例としてとりあげたのであって、相手の話から連想して記事を書くこと自体がどうだとかこうだとか言ってるつもりはないのです。

というわけで、

しかしこれ(引用者注:連想型で記事を書くこと)、ネットの楽しみの王道というか、無くなってしまったら寂しいやり取りという気がします。

というご意見には同意です。連想によって話題がどんどん膨らむということもたくさんありますし、それに自分自身、以前からid:smallpineさんの連想型のブログが好きで楽しみに巡回させていただいています*2しね。繰り返しになりますが、悪いのは元記事からの連想でエントリを起こすこと自体ではなくて、「元記事の文脈はどうでもいいが俺の歌を聴けボエーーーー★」をわざわざ元記事を書いた人に向かってぶちかますこと*3だとあたしは考えています。

教科書の例文はどうなんだろ。たしかに推奨出来ないやり取りだけど「教科書にも書いてある悪い行為」的な認識になってしまうのはなんか違う気がする。時代は変わるもんだから、こういうのが悪いって総意がある状態こそ新世代なのかもしらんけど。
はて、いったいどなたが竹田さんのふるまいを「『教科書にも書いてある』悪い行為」という概念で認識されたのでしょうか。教科書に載っていようといまいと、「目の前の会話相手の話を無視して自分のことばかり話そうとする行為」は誉められたものではないし、それはいつの時代でもあまり変わらないこと*4なのではないかとあたしは思っています。第一、教科書なんてたいした権威でもないでしょう、今も昔も。

*1:ただし、これはトラックバックの用途をどう考えるかによって解釈が変わってくるところではありますけど。「1ナノグラムでも元記事に言及していればどんどんトラックバックすべき」という考えの人なら、「ボエーーーー★」も全てトラックバックしてしかるべき、ということになるのが難しいところですね。あと、はてな自動トラックバックは、意図して手動で送るものとはやや性質が違うため、これも人によって解釈が異なるかと。

*2:実際、今日も、仕事帰りに携帯で自分のはてなアンテナからid:smallpineさんのところに飛んで、自分の名前が出ているのを見て夜道でひっくり返りそうになったのでした。

*3:どこからどこまでが「ボエー」でどこからどこまでが「ボエー」でないのかの線引きが難しい、という問題はありますが。

*4:ただし、国が違えば当然この概念も変わってくるとは思います。イタリアなんかすごいらしいですし。国じゅうみんなが「竹田さん」なら、そう割り切ってしまえばある意味エネルギッシュで楽しいかもしれません。