他人の痛みは100年でも我慢できる - 川原泉と同性愛

(2006-08-20 0:52追記:エントリに小見出しをつけ、一部パラグラフの順番を入れ替えました)

1. 「問題にするほうがおかしい」と言い出す方が「おかしい」


「真面目な人には裏がある」が単行本になったのがきっかけで、川原泉作品の同性愛描写がまたもや問題になっているようだが、これは問題にするほうがおかしいのではないか。ふだんはあまり漫画を読まないひとが、川原泉というスキの多い作家をたまたま見つけて血祭りに上げている、といった感さえある。
足を踏まれていない(らしい)人が、「足を踏まれて痛い」と声を上げる人に向かって(または、それを横から見て『痛そうだよ、踏んじゃダメだろ』と言ってる人に向かって)「問題にするほうがおかしい」と言い出すこと自体が「おかしい」と、漫画ヲタにしてセクシュアルマイノリティーであるあたしは考えます。

2. 「マイノリティー」という語の解釈が間違ってます


われわれは口先では「性的マイノリティーを差別するのはよくない」といくらでも言える。しかし実際に自分の肉親や友人が性的マイノリティーであると知ったら、「引いて」しまうのではないか(そもそも「引いて」しまうような存在だからこそ、「マイノリティー」と呼ばれているのだ)。
英語をあまりご存知ないようで。以下、ロングマン現代アメリカ英語辞典から"minority"の項目を引用してみます。

minority
1 a)a group of people of a different race or religion than most people in a country
b)someone in one of these groups
2 a small part of a larger group of people of things
3 be in the minority to be less in number than any other group
これを見てもわかる通り、"minority"というのは「少数」「少数派」「少数者集団」を表わす語であって、「『引いて』しまうような存在」などという意味はどこにもありません。id:yskszk氏が少数者と接するたびにいちいち「引いて」しまうのはご自由ですが、「引いてしまう相手をマイノリティーと呼ぶ」などという発想は滑稽でしかありません。

3. 同性愛者も「市井のひとびと*1」です。そもそもそこを無視した作品であることが問題なんです


「真面目な人には裏がある」は「同性愛者に偏見を持ってしまう市井のひとびと」を「偏見なく」描こうとしている良心的な作品だとオレは思う。
id:yskszk氏のおっしゃる「われわれ」や「市井のひとびと」には同性愛者は含まれていないわけですね。ふうん。
「真面目な人には裏がある」は、確かに「同性愛者に偏見を持ってしまう異性愛者」の姿をありありと正確に描き出すことには成功しています。そこが悪いなんて思いません、だって現実だってあんなもんですしね。問題は、そこまで熱心に異性愛者の内面を描いていながら、同性愛者の内面描写はほぼ皆無で、ゲイをまるで「感情のない書き割り」または「都合のよいおもちゃ」のように扱っていることですよ。

4. 結論

結局、「他人の痛みは100年でも我慢できる」ということなんでしょうねー。

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6. 補足(掲示板過去記事より転載)

以下、うちのサイトの掲示板に2006年8月3日に書いた文を多少加筆して転載してみます。セクシュアルマイノリティーであり、これまでほぼ全部の川原泉作品を読んできた(花ゆめもコミックスも、ずっとずっと買い続けてきたさ!)あたしの意見は、ほぼこの書き込みに集約されています。


投稿者:みやきち 投稿日: 8月 3日(木)14時34分21秒
「真面目な人〜」は、ゲイの側が家族からあんなにひどい仕打ちをされてもほとんど怒りも悲しみもしないという点において、もうリアルでも何でもないですよね。「あんな人間いねーよ! ロボットかよこいつらは!」と、読みながら怒っていたあたしです。あのお話全体を「普通」だと思ってしまう人というのは、同性愛者にも人間らしい感情があるとすら思っていないんでしょうね……。

川原氏の側も、ゲイを登場させるお話を描くのに、「ゲイのことなんか分からない」とばかりに異形の化け物を描いて済ませるというのは、「戦争で言えば敵前逃亡」だなと思いました。そこまで分からなくて、分かろうとする意欲もないなら、最初から描かなければいいのに。
漫画はフィクションですから、偏見も暴言もどれだけ描いてもいいとは思うんですよ。ただし、作品中のどこかに、その偏見や暴言を冷静に客観視する姿勢がなければ、その話はたちまち嫌な臭気を放ちだすと思います。

たとえば『笑う大天使』で「イタリア人です!」と言い切る史緒さんの発言は偏見に基づいたものですが、それが少しも嫌な感じになっていないのは、その発言がきちんと客観視されているからだと思うんですよ。点目になって呆れる先生方や、和音と柚子の内心のツッコミや、「史緒さんの「直感」は普通「偏見」と呼ばれている」という地の文などによってしっかりとフォローされているからこそ、あのシーンはギャグとして成立しているのだと思います。

でも、「真面目な人〜」の偏見あふれる暴言の数々には、最後までそのようなフォローが一切ありませんでした。そこがとても悲しくて残念なところです。

*1:なんかあたしが間違ってるかと思って広辞苑で調べてみたけど、やっぱり「市井の人」には「市中に住む庶民」って意味しかなかったし。