百合小説はファンタジー。では、レズビアン小説はどうなのか?

先日書いた「ファンタジーとしての同性愛」というエントリに関連して、メールフォームにてビューワー様から面白いご質問を頂きました。

私は百合という言葉を使ってる人の意識はばらばらな気がしてました。(中略)みやきちさんは、レズビアン小説をどう思いますか? あれは、ファンタジーだと思いますか?
このご質問自体には既にメールにてお返事済みなのですが、興味深いテーマだったので日記のエントリとしても記事を書いておきたいと思います。興味深いご質問を下さり、ありがとうございました!

レズビアン小説もやはりファンタジーの一種である

結論を先に言ってしまうと、あたしはレズビアン小説もやはりファンタジーの一種だと思います。レズビアン小説は百合小説ほどは現実離れしていないため、百合小説のように「リアルな世界に疲れた人の逃避先」として消費されてはいませんが、フィクションである以上は何らかの幻想の受け皿として機能しているはずです。
百合小説やレズビアン小説に限らず、小説というのは読み手の幻想を投影するためのものだと思うんです。女性と女性の愛を描いた作品で、よりノンケさんの幻想を投影しやすい構造になっている小説がいわゆる「百合小説」寄り、レズビアンの幻想を投影しやすい構造になっている小説が「レズビアン小説」寄りなんじゃないかとあたしは思っています。

「百合」とは、女性同士の愛を異性愛者が共感しやすい構造に改変したもの*1

「なぜ百合マンガ/レズマンガにおいて偽ちんこは邪道なのか」の中であたしは、「♀♀物の中で、現実世界の重力を振り切ってぽーんと跳躍してるものが『百合』」と書きました。この「現実世界の重力を振り切る」という部分を他の言葉で言い換えるならば、「現実の同性愛から乖離した、『異性愛者にとって共感しやすい同性愛』を捏造する」ということです。百合の定義が人によって違うのは、異性愛者さんにとって「ここまでフィクショナリーにねじ曲げてくれれば安心して自己を投影できる」という線引きが人それぞれ違うからだと思います。

作品を「百合」寄りにする、すなわち現実から乖離させる仕掛け

個人的には、以下のような仕掛けを使って現実世界を作り変えた♀♀創作物は異性愛者向けに、すなわち「百合」寄りになりやすいと考えています。

  1. 舞台を「レズビアン」「同性愛」という概念自体が存在しないパラレルワールドにする
    • 良い例が『マリみて』です。あんなに女の子同士がいちゃいちゃして「キス」だの「デート」だのに夢中になっているのに、ほとんど誰一人としてそれが同性愛だと思ってすらいません*2。本物の同性愛者から見ると、これは一種異様な世界なのですが、なるほどこういうパラレルワールドを舞台にしてしまえば、ホモフォビックなバリヘテさんでも大嫌いな「レズ」の概念に脅かされずに感情移入できるわけです。
  2. 安全装置としての「背徳感」の使用
    • よくある「女の子同士なのに、こんなの……いけないわ……」ってやつですね。今時のガチな人としては、「どこがいかんのだ?」と素で悩んでしまいますけど。女性同士の関係にやたらと時代遅れの背徳感を盛り込むのは、どこかに「異性愛こそ規範」というメッセージがないと安心して欲情できないノンケさんのための安全装置だと思います。
  3. 免罪符としての「美」の使用
    • 女の子同士の関係を、非現実的なまでに美しい世界の中限定で描いてみせること。書き手/描き手の高い表現技術が堪能できてありがたいし楽しいんですが、困るのは「やっぱり同性愛は美しくなくちゃ*3」とか「百合は美しいけどレズは汚いから嫌」とかいうことを真剣に言い出すアホも一部に存在すること。「美しさ」という免罪符なしには同性愛の存在に耐えられない人なんだろうなと思うんですけど。
  4. 結局異性愛に帰結する
    • キャラが男とくっつくところまで書かなくても、「百合は思春期だけのもろく儚いもの」なんていう概念で「やがて壊れる一時的な関係」であることを強調するのもこれと同じです。「一生同性同士で愛し合うのは無理」と思ってる人や、「女子校時代は私も女の子に憧れたわー」とうっとりしてる元「なんちゃってレズ」さんは、こうした仕掛けがあった方が自分を投影しやすいんでしょうね。

もちろん、百合作品なら必ずこのどれかの仕掛けを使っている、ということはありません。これらの仕掛けを使った作品は百合っぽくなりやすい、という程度のものだと思ってください。
それから、百合ジャンルには、こんな仕掛けがなくても女性同士の関係に感情移入できるという柔軟な感性を持った書き手/描き手さんや読み手さんもちゃんとたくさんいることも一応ここで明記しておきます。

レズビアン小説には、これらの仕掛けは使われていない

扶桑社ミステリー文庫から出ている、レズビアン探偵ローレン・ローラノシリーズに、果たして上記の「作品を百合っぽくする仕掛け」が使われているかどうかを検証してみました。
シリーズが始まった時点で、主人公のローレン・ローラノは42歳で、女性の恋人と11年同居しています。つまり、女性同士の関係は「思春期だけの」「もろく儚い」ものではない。第一作『狂気の愛』の冒頭でローレンは、目元のカラスの足跡を気にしています。つまり「非現実的なほどの美しさ」で糊塗されたお話では、ない。レズビアンという単語もばんばん出てくるから、「同性愛という概念自体が存在しないパラレルワールド」でもない。
では、背徳感についてはどうか。第三作『愛しの失踪人』では、ローレンは、レズビアンの体験をしながら「いけないこと」「終わらせなければならない」(p348)という思いにかられて一生その事実を否認しようとしているキャラクタに会い、こんなことを思っています(p350)。

真の自分の姿を認めていたなら、もっと幸せな人生が送れたかもしれないというのに。他人がどう思うかを慮るあまり、喜びのない関係に自分の身をおく人間の典型のようだ。
つまり、背徳感なんてアホらしいとローレンは思っているわけです。見事なまでに、前段で述べた「作品を百合寄りにする仕掛け」が存在しない構造なわけで、こういうのが「レズビアン小説」だとあたしは思ってます。

でもやっぱり、レズビアン小説もファンタジーである

前段で取り上げたローレン・ローラノ・シリーズを例に挙げましょう。現実として私立探偵をしてるレズビアンなんてめったにいないので、読み手はあくまでローレンの姿に「自分がこの立場だったらどうだろうか」という幻想を重ねて楽しむ、という読み方をすることになります。そういう意味で、これもやっぱり「ファンタジー」なわけです。
ミステリ以外の、たとえばラブストーリーのレズビアン小説も結局は同じです。いずれにせよ、レズビアンにとっては、美しさだの背徳だのという変な言い訳がくっついていない「レズビアン小説」の方がよりストレートに自己を投影しやすいんじゃないかと思います。

まとめ

  • レズビアン小説もファンタジーの一種である
  • 百合作品とレズビアン作品の差異は、「異性愛者向けの捏造同性愛であるかどうか」である
  • 「百合」の概念が人によって違うのは、「どこまで捏造すれば安心して共感できるのか」というラインに個人差があるからである

*1:ただし、厳密に言うと、「百合」の原義は「現実の女性同性愛」です。これは、雑誌「薔薇族」の伊藤文学氏によって命名されたものです。が、その後、異性愛者による表象の横奪がさんざん行われた結果、現在では「百合」という語はもともとの意味からだいぶズレてきてしまっていると思います。

*2:聖さまは例外ですが、きちんと「背徳感」を背負わされています。初めて読んだとき、本当に周到に作り上げられた世界だなあと感心しました。

*3:羅川真里茂が「花とゆめ」で『ニューヨーク・ニューヨーク』を連載してるとき、編集さんが読者欄でこの通りのことを言い放っていて、アホらしくなって雑誌自体を読むのをやめたっけなー、そう言えば。