「百合やBLは同性愛者に配慮すべきか」なんてことを大真面目に“考察”してる人を見ると

「百合やBLは同性愛者に配慮すべきか」なんてことを大真面目に“考察”してる人を見ると、まるで「電車の中では他人の足を踏まないよう配慮すべきか」を論じる人を見ているような妙な気分になります。いちいち“考察”しなきゃわからないようなことなんですか、それって。

つーか、物理的には、電車の中で無配慮に他人の足を踏みまくることなんて誰にでも可能なわけですよ。踏んづけた相手に嫌われたり怒られたり批判されたり殴られたり、場合によっては法的措置をとられたりする覚悟さえあれば。同様に、創作物の中で好きなだけ同性愛への嫌悪や偏見を表明することだって、誰にでもできます。同性愛者やその理解者・支持者から嫌われたり怒られたり批判されたり殴られたり、場合によっては法的措置をとられたりする覚悟さえあればね。しかしながら、「百合やBLは(略)配慮すべきか」という問いを呑気に立ててしまう姿勢には、その覚悟の匂いがまったく感じられません。少数派が沈黙を強いられる社会構造にあぐらをかいて、「別に配慮しなくても自分らはひとつも困らないけど、とりあえずあの二等市民たちに『配慮』という名のお恵みをほどこしてやるかどうか考えようぜ」と論じているように見えてしまい、そこがもっともひっかかるところ。

要は、勝手に一段高いところに身を置いて安穏と

  1. 配慮すべきか
  2. 配慮しなくてもいいのか

のどちらかを選べると思っちゃうのは傲慢なんじゃないかって話です。より現実的な二択は、

  1. 配慮するか
  2. 配慮しないでおいて、批判や反論、汚名などに耐えるか
だとあたしは思いますね。「たとえ顰蹙をかってでも、どうしてもこの表現で世に示したいものがある!」っちゅーなら、bを選んで好きなだけホモフォビア表現をしとけばいいじゃない。その分こっちも死力をつくして批判・反論させてもらいますけど、ええもう生まれてきたことを後悔するぐらい激烈に批判し倒してやる! とか思ってますけど、それぐらいされて当たり前だと自覚してよ。他人に対して無遠慮に失礼を働くのなら、ぶん殴られる覚悟ぐらいしとけよ。まるで「今日はのび太を殴らずにおくべきか、それとも殴るべきか」と考えるジャイアンみたいな俺様目線で、悠長に「配慮すべきかどうか」なんて論じてるんじゃねーや、まったく。