日本人に「愛」は無理なんじゃないかという話

いや別に、日本人には相手を好いたりいつくしんだり大切に思ったりすることが無理だ、って意味じゃありませんよ。日本人にとって「愛」の概念は西洋から、用語というか漢字は仏教から借りてきた物だから、そんな借り物のフランケンシュタインみたいなものを使いこなすとかコンセンサスを得るとかは無理なんじゃないの、って話です。以前からそう思っていたので、昨日トラバをいただいたエントリのこの部分にたいへん共感いたしました。


私は、出来れば使用するための言語を有効的に使用したいので、愛とか欲望とか好きとか何だとか別個に捉えたいのね。分離させようと意識する。つーか、あまりに愛の定義が不明瞭すぎる。(別にしないけど)議論の上で、既に合意のある学術的な定義を用いないと議論なんか出来やしねーぞ-w-;と思うのに、愛にはその幅に際限がなさ過ぎる。「え?それ愛って言わなくても好きで良くない?」て思ったりするんだよね。愛という言語には(「好き」とは少し違った経緯で、)歴史があるようだのに、総括的な共通合意(コモンセンスと言うのか?)が見当たらない・・・。と言うよりは、意味が分散していて取りとめがないように見える。勿論皆さん好きなように言葉を使っていただきたいけど。でも私ひとり混乱。

そもそも"愛"という概念は輸入品

西洋から最初に「愛」の概念が持ち込まれたとき、日本人はどう対処したか。検索してみたところ、こんな論文がありました。


明治の知識人は西洋の “love,” “l’amour” を翻訳するさい、日本の「愛」の概念と西洋の愛の概念を区別しようとして、「恋愛」ということばを用いた。彼らは日本の伝統にある「情」、「恋」、「色」といった表現が「不潔」な連想を引き起こす恐れがあるとみて、西洋的な愛には「深く魂により愛する」ことを意味すると考えた(柳父、 89-105)。後に、「恋愛」ということばが近代の「恋愛観」を示すことばとなり、中国の留学生によって、中国に逆輸入されたとみられる。一つのことばの誕生からもわかるが、ヨーロッパ諸国との接触がまだ浅かった十九世紀の初期、概念から「かたち」まで差異性が存在する西洋的恋愛観を偽りなく「伝える」ことは決して容易なことではなかった。日本において最初に翻訳された西洋の恋愛小説『花柳春話』に、青年が少女に kiss をすることを「朱唇を一嘗する」と翻訳し(木村、20)、二葉亭四迷は男のいう “I love you” を簡単に「ぼくはあなたが好きだ」と訳したが、女の答え “I love you” を「死んでもいいわ」という文句にしたと指摘されている(玉村、228)。

"愛"という語も輸入品

たしか日本に最初にこの漢字が持ち込まれたのは、仏教用語としてだったと聞いたことがあります。で、仏教用語の中の「愛」は「渇愛」なんて用語に使われていて、少しもいい意味じゃない悪い意味で使われることが多いんですね*1。おまけにこの漢字は、本国中国でももともと「男女の愛」という意味では使われていなかったようです。上で引用した論文から、もう少し引用してみます。


そもそも、中国語の「愛」という言葉は早くも紀元前の古典の中で使われており、フランス語 “l’amour” と同じ、いろいろな人間関係を含む一種の感情を示すことばである。ただし、“l’amour” とは根本的な違いがある。中国文化の基盤である孔子孟子のいわゆる儒学思想を示す書物において、「愛」は「人を愛する」という意味でよく使われている。仁」、「義」、「徳」、「礼」を強く強調する儒学では、つねに男が上位におり、女は男に支配される対象である。「人を愛する」ことが天下の男の責任と見られ、「女を愛する」ということが「色」とされる。男が立派な人間になるには「色」欲を抑制しなければならないのである。
周定一編の『紅楼夢語言詞典』の「愛」の項目において、編著者は五つの意味について例を挙げたが、「男女の愛」という意味はない。言い換えれば、有名な中国の恋愛小説『紅楼夢』においても、「愛」という語は男女の愛という意味では使っていないようである。

それでは和語はどうなのか

id:nodadaさんは「愛し」(かなし)を挙げてくださっていますが、これはもともと親が小さな子どもなんかを見るときに、かわいらしくていじらしくてじーんとする気持ちが第一義ですよね。そこに中国から持ってきた「愛」という漢字をあてたわけで、つまり、やっぱりこれも男女の恋愛を形容することばではないから、西洋的なロマンティックラブ・イデオロギーからは遠く隔たっているんではないかと思います。
もちろん日本人にも男女の恋情は*2あったはずなんですが(そうでなければ和歌に恋の歌があんなにたくさんあるはずがありません)、「名前を聞くだけで即結婚の申し込み(ぶっちゃけ、セックスの申し込み)になる」という昔の日本の恋愛観と、ルネサンス以降の西洋的恋愛観はやっぱりまったくの別物ですわな。「忍ぶれど色に出にけり我が恋は」というあの有名な歌なんてのも、決して「我が愛は」とか「我がLOVEは」とか言い換えられませんしね。

まとめ

現代日本人の考える「愛」(特に、男女の恋愛という意味での「愛」)は、西洋からの借り物の概念に、中国からの借り物のことば(それも、元々男女の恋愛を意味しないことば)をくっつけて無理矢理流通させたものなんだから、人によって解釈にズレがあるのが当然だと思います。実際、「好き」の最上級として「愛してる」を使う人もいれば、「やらせろ」の意味で「愛してる」を使う人もいますもんね*3。多分、日本語話者を相手に「愛してる」一本槍で気持ちを伝えきることはおそらく無理で、「好きだ」とか「恋しい」とか「切ない」とか、そういうやまとことばを織り交ぜた方が、腹の底からすとんと理解してもらいやすいんじゃないでしょうか。

蛇足

昨日のエントリで書いた「お祭りのような『愛』」と「日常的な『好意』」の区別は、個人的にはこう考えています。

  • 交感神経優位なのが、「お祭りのような『愛』」
  • 副交感神経優位なのが、「日常的な『好意』」

血圧や心拍数を測れば違いは一発です。要するに、長期的な関係を築くには、リラックスできる状態の方がいいってことですね。

*1:後日注:調べたら仏教において肯定的な意味で「愛」という語が使われる例もあったので、訂正しました。詳しくは→「仏教用語としての『愛』」。

*2:当然、男男の恋情や女女の恋情もあったはずですけど。

*3:現代的な価値観では失礼にあたると思うけど、実はこういう人って「この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告らさね」以来の伝統(口説くことイコールセックスの申し込み)を踏んでいると言えば言えるのかも。