「嫌い」に向き合わないA子が嫌い - 「鏡の法則」について(2)

(ちなみに1はこちら。→「許すこと」なんてくそくらえ - 「鏡の法則」について
最近読んだ本の中に、「鏡の法則」について考えるヒントになりそうなくだりがあったので、メモ。


善人とは「嫌い」に向き合わない人と言えます。この人種には大きく分類して二通りある。一つは、自分はいつも善意の被害者であり、相手がいつも加害者であるという人。自分の加害性にまったく盲目なのです。こういう善人は常に愚痴ばかり言っている。自分の善意がいかに酷たらしく裏切られたか、その苦難の体験を次々に腹に詰め込む。しかも、彼らは決して当人に仕返しをしないのはもちろん、裏切られたということさえ仄めかしませんから、相手はまったく気づかない。気づかないでにこにこしているうちに、じつは深いところで恨みを募らせ、切り捨てているのです。
もう一つのタイプは、すべて他人は善人だとみなす人。相手の悪意も善意に切りかえて解釈しようとし、すべての人を好きになるべきだと考えている人。こういう人も、これは意志というより体感的なものですから、こう考えないと落ち着かないのです。
(引用者中略)両方のタイプは逆のベクトルをもっているように見えますが、同じ穴のムジナ。なぜなら、両者とも、自分と相手との対立を正確に測定しないからです。前者は、自己批判能力が絶望的に欠如している。後者は、さらにそれに輪をかけて他人批判能力までも欠如しているのです。
いつも個人の信念を確認することより、それを滑らかに平均化して、毒を抜くことばかりに勤しんでいる。気がついてみると、いつも穏やかな宥和状態が実現されている。それはそれで価値あることですが、真に対立を直視した後の宥和ではありませんから、そこには嘘がある。無理がある。思い込みがある。幻想がある。
結局、「鏡の法則」の主人公A子は、上記引用文の前者のタイプの「善人」から後者のタイプの「善人」にスライドしただけなんだなあと思いました。つまりA子はもともと自己批判能力が欠如していたところにB氏によって他人批判能力まで奪われ、嘘と無理と思い込みと幻想に満ちた宥和状態に至ったというだけのことなんじゃないかとあたしは解釈しました。
そのように考えてみると、「鏡の法則」に対する批判は以下のように分類できますね*1

  1. A子の自己批判能力欠如に対する批判
  2. 他人批判能力を奪うB氏への批判
  3. 自己欺瞞的な宥和状態への批判

批判能力を手放して幻想の世界に浸りきってしまったA子は多分に幸せかもしれませんが、あたしはこのような欺瞞に満ちた(そして、他人に簡単に支配・利用されそうな)宥和状態など死んでも嫌だと思いました。第一、怖くてダメですそんなの。うちのパパンがA子みたく安直に許すとか感謝するとかがありえないようなアル中DV最低親父でよかった。ママンも「否認と合理化はここまで人を不幸にする」という手本のような最低母でよかった。まったく感謝できない親を持ったおかげで、あたしは「嫌うこと」「怒ること」「支配しようとするものには抵抗すること」を嫌というほど学ぶことができて、そのおかげで今とても幸せに暮らしています。パパン、ママン、あなたたちのことは一生大嫌いだし許さないけど、その点についてだけはありがとう(この感謝は本物)。

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*1:時間がなくて全ての項目にはURLを示せませんでした。できたら後でやります。(2006-07-07付記:リストに加筆訂正し、いくつかURLを付け加えました。)(2006-07-10付記:リストにさらに加筆しました。)