特定の個人に向けて書くものは強い、ということ - 『17歳は2回くる - おとなの小論文教室。III』(山田ズーニー、河出書房新社)の感想

特定の個人に向けて書くものは強い、という話。

第2章のコラム、「プライベートメール」「殺菌される表現」「汚しのある表現」の3本がとてもおもしろかったです。この一連のコラムで、ズーニーさんは「私たちは、間違いのない、整理されたきれいな情報を好む」(p94)けれども、そのようないわば殺菌された表現では個人の真剣な「想い」が薄まってしまうと指摘しています。誰にとってもわかりやすい整然とした情報よりも、間違いや、よく知られていない固有名詞や、誤解をまねきそうな表現をも含んだプライベートメールの方がより強い力を持つってこともあるんだよと。
ズーニーさんはこんなことを書いています。(p95-96)


戯曲を書いている友人が、だれに向かって書くか、を話しているとき、こんなことを言った。
「たった一人、ある特定の個人に向けて書くもののほうが、圧倒的に強い。それが多数に向けて書くとなると、とたんに弱くなる。それはわかるけど、どうすることもできない」

ネットで文章を書くときでも同じこと。

上に書いたことは、304 Not Modifiedの以下の2つの記事に通じるものがあると思いました。


インターネット上に公開するということは、誰もが参照可能ということである。
その中にあって、特定の人へメッセージを込めよ。

1.私は「一人称」「二人称」「三人称」の3つを挙げたが、一番大事なことは「二人称」だと思っている。
2.「二人称」のターゲットを絞ったほうがメッセージ性が強くなり、良い記事になるのではないかと思っている。
3.特定の人にターゲットを絞ることと不特定多数に対して書くということは、矛盾していると思っている。
結局のところこれは、コラムでも、戯曲でも、ブログでも、およそ文章を書くこと全てに共通することなんだと思います。濃い反面で誤解も生みやすい「特定の人へのメッセージ」と、わかりやすいけれども薄味な「不特定多数へのメッセージ」との間で、最もバランスの良い落としどころを探し出すというのが、良い文章を書くためのポイントなのではないかと感じました。

まとめ

マスに向けた整然とした情報には限界がある。深い「想い」を伝えるには、勇気を持って特定の個人に向けたメッセージを込めることも必要。