コピペは所詮コピペ

銭が取れるプロの文章と、ネット上のコピペとでは、同じ内容でもこんなにも表現力が違うという好例2種。

例1:「耳にバナナ」ジョーク2種

まずは伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(文春文庫)バージョンをどうぞ。


ある紳士がエクセターに行く汽車に乗った時のことだ。コンパートメントに入って席に着こうとした時、彼は向かい側の男の顔に目をやって、そこに異様なものを発見した。
その男は、ポーラー・ハット(山高帽)に黒いオーヴァー、銀色っぽいスカーフを首に巻いて、細身の蝙蝠を持っていた。いわば典型的な中年のイングリッシュ・ジェントルマンである。
ところがその紳士は左の耳にバナナを詰めていたのだ。
誰しもやるように、バナナを食べようとする時は、皮を半分くらいまでむいて、後は手に持つために残しておく、そういう工合にむいたバナナの身のほうを、その紳士は耳に差していたのである。
しかもその紳士は進行方向に向って窓ぎわに坐っていたから、開け放った窓から入ってくる風が、半分むいたバナナの皮を――バナナを差した耳は窓から遠い側だったが――絶え間なくはためかせていた。
これはしたり! と思わず叫びそうになったのをあやうくこらえて、後からきた男はともかく腰をおろして機械的に新聞を拡げた。
ついでながら、英国紳士たるものは、コンパートメントで向かいあった人間の顔を決して見ないことになっている。彼らが汽車に乗る際、必ず新聞を持つのはこのような理由によるものだ。
さて、彼はタイムズを眼の高さに捧げて読み始めた。第一面は三行広告欄。自動車売りたしロールス・ロイス・シルヴァ・クラウド・コンヴァティブル、八五一〇ポンド――どうしたもんだろう、やっぱり忠告してやるべきだろうか――サルーンなら六三六七ポンド――しかし一体どう切り出したもんだろう。まさかバナナが耳に詰ってますよともいいにくいし(中略)――しかしこれは何か深いわけがあるのかも知れんぞ――
(中略)彼はついに新聞を隅から隅まで読んでしまった。(中略)最早逃れるすべはない。エクセターまでは、まだ二時間もある。彼はついに勇気を振りしぼって相手の眼を捕えた。
「まことに失礼ですが――」
ところが彼の声は少しばかり低すぎたようだ。しかも、相手の紳士は左耳にはバナナを詰めているし、右耳は窓側だから風の音とレールの音でほとんど聞こえない。
「何とおっしゃいましたか?」
「まことに失礼ですが――」
彼は大声でどなった。
「耳にバナナが詰っているのをご存じですか?」
「何ですって? もう一度おっしゃってください。」
「あなたの耳にですね、バナナが詰ってますよ!」
「何ですか? 何とおっしゃいました?」
「ミーミーニーバーナーナーガーツーマーツーテーイーマースーヨー。」
「すみませんが全然聞こえないのです。何しろ耳にバナナを詰めているものですから。」
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伊丹 十三

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これがネットのコピペだと、こう。


サラリーマンのジャックは、毎朝、エレベーターで同じ男と乗り合わせた。
男はいつも、耳にバナナをさしていた。
ジャックは気になって仕方がないのだが、なかなか話し掛けづらい。
ある朝、他に人もいなかったので、ジャックは思いきって聞いてみた。
「どうしていつも耳にバナナをさしてるんです?」
男は言った。
「え?なんですか?耳にバナナが刺さっていてよく聞こえないんですが」

例2:「金持ちとメキシコ人の漁師(または、インディオの老人)」のジョーク2種

以下は開高健『生物としての静物』(集英社文庫)バージョンです。


一人のアメリカ人の金持が休暇をとってアマゾン河へやってきてインディオの老人とならんで魚釣りをはじめる。アメリカ人はブルックス・ブラザーズに特註で作らせた、パリッとした防暑服を着こんでいるが、インディオの老人は全裸にフンドシ一本きりである。二人は雑談をはじめ、アメリカ人は問われるままにニューヨークやジャンボ/ジェット機の話などをしてやる。
そして話が身上話になると八歳のときからブルックリンの町角にたって新聞売りをはじめたが、一生シコシコセカセカと働いた結果、今ではアメリカ実業界の大立者になったいきさつを語る。ニューヨークにペントハウスを一つ、パリ郊外にシャトォを一つ、自家用ジェットを二台、マイアミに豪華オーシャン・クルーザーを一隻、自動車は五台、金はトン単位でかぞえたいくらい……などと語る。
「……しかしだね、セニョール」
金持は深い吐息をつき、
「そうやって何もかも手に入れたけど、今のおれにとって何が幸福かというと、こうやってたまに一人でフラリと旅に出て秘書もオンナも電話もぬきでノンビリ魚釣りをすること。これ以上の幸福はないね」
それまでだまって話を聞いていたインディオの老人、怪訝そうに顔をあげ、
「何だ、金持になるってそんなことですかい。それならおれは八歳のときから毎日ここでやってますぜ、セニョール」
といった。
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これがネットのコピペだと、こう。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

プロの文と素人コピペの違い

上記2例を見てすぐにわかるのは、どちらもコピペの方が圧倒的に人物や状況の描写が浅いということ。耳バナナコピペの「サラリーマンのジャック」には、エクセター行きの汽車でおもむろにタイムズを開く英国紳士ほどのキャラの厚みはありません。「メキシコ人の漁師」コピペの“MBA”や“水産品加工工場”には、開高健バージョンの“ニューヨークのペントハウス”や“フランスのシャトォ”ほどの成功の香りはありません。そして、描写力の差はそのまま面白さの差に直結しています。紳士や老人の表情さえ浮かんできそうな「ミーミーニーバーナーナーガーツーマーツーテーイーマースーヨー。」や、「八歳のときから毎日ここでやってますぜ、セニョール」の滑稽味は、コピペの方では味わうことができません。
これが、素人とプロの違いだと思うんです。
別にプロを目指さずとも、言語表現でよりよいアウトプットができるようになるためには、平生から質の高いインプットを心がける必要があると思います。ネットばかりダラダラと眺めて、プロの手で磨き上げた文章を読む時間が削られるというのはよくないな、と自戒をこめて思いました。文庫本なんて、ほんの数百円。本を読もう、もっと。