倖田來未は男にも女にも股を開けるのかもしれない*1けど、同性愛者はそうじゃないのよね

本日も掲示板レスをリライトしたものをアップ。一生懸命書いた文を流しちゃうのももったいないなー、と思いまして。

「同性愛がテーマ」という触れ込みで売り出されている新曲「BUT」ですが、歌詞やインタビューの内容を見て、「何この勘違いヘテロの上から目線」ともやもやした気分になりました。これらの文面から読み取れる限り、倖田來未は同性愛のことなどほとんどわかっていないし、異性愛者の暴力性についてもまったく無頓着だとしか思えないからです。

同性愛者には、好きになる相手の性別は重要です。


倖田來未:海外の作曲家さんからトラックをいただいてパッと思いついたのが同性愛だったんですよ。私は好きになる相手が異性であろうと同性であろうと関係ないと思うタイプなんですよ。

今回のシングル「BUT」はなんと“同性愛”がテーマになっているという。
BARKSに届いたメッセージ映像では、「“愛”に性別は関係ない!」と彼女らしいフリーダムなトークを聞かせてくれる。
あくまで同性を好きになるのが同性愛者なんだから、性別はすごく、とっても、大いに関係あるんですけど。その程度の認識もなしに「同性愛がテーマ」とは、たいへんユニークな見解ですね。倖田來未は性別関係なく男にも女にも股を開けるのかもしれません*1が、同性愛者はそうじゃありません。

ヘテロ男女の悩みと同一視されても困ります。


相手が誰であろうと“人を愛する気持ち”に変りはないでしょ? 愛は自由なんだから、そこに正解や不正解はない! “学校の先生に恋をしている”とか“友達の彼を好きになってしまった”……なんて禁じられた恋をしている男女も同じ。そこで“好き”という気持ちを殺してしまうのは悲しすぎますよね。愛は人間を豊かにしてくれる宝物だから。大事にして欲しいなって思います。
教え子とめでたく結婚に至る学校の先生はざらにいるし(たったの数年待つだけで、晴れて大手を振って付き合えるんだからね!)、三角関係の結果、友達の彼と付き合うことになった人だって一杯いるでしょう。その程度のもんが「禁じられた恋」? 誰がどう禁じてるの?

こういう↑目に遭ってるのが同性愛者なんですけど。耳ちぎられたりしてるんですけど。倖田さんの目には、これが「学校の先生を/友達の彼を好きになっちゃった☆どうしよう☆」っていうヘテロ男女の悩みと同列に見えるのかー。そりゃまた特殊な目ですねー(棒読み)。

同性愛者が恐れているのは同性同士の恋に踏み出すことそのものではなく、異性愛者からの抑圧と暴力です。

要するに、上で書いたようにヘテロに恐喝されたり暴力(言葉の暴力や無言のいやがらせなども含む)をふるわれたりということが嫌なわけ。だから意思表示にも慎重にならざるを得ないんですよ。
なのにこの曲「BUT」の歌詞は、異性愛者の暴力性からは都合よく目をそらして*2、同性愛者の側だけを「逃げてばかりね?」「目をふさいでる」と煽るだけ。「誰のせいで苦労しとると思っとるんじゃいこのクソヘテロ*3があっ!!」と、イヤな気分になりました。

地雷原を前に佇む人に向かって、安全な場所から呑気に「一歩を踏み出して欲しい」(gooインタビューより)と応援されても困るってもんです。その地雷を設置してるのが自分たちヘテロ*4だって認識はないのかしら、倖田さん。こちらではなんと「背中を押してあげる」とまでおっしゃっておいでですよ。押すな。

まとめ

「BUT」は同性愛がテーマの歌なんかじゃありません。「同性愛に理解があるふりをしていい気分に浸りたいヘテロのための歌」です。
マドンナもシェールもライザもベット・ミドラーも、ジュディ・ガーランドも、わざわざ「同性愛がテーマの歌でーす」なんて喧伝しなくともゲイに売れまくった(ヘテロにも当然売れまくった)のにね。実力やマーケティング能力の差って、怖いわねー。

※このエントリには続きがあります。

関連情報

この曲「BUT」に関しては、既にid:nodadaさんやid:Ry0TAさんが名エントリを書かれています。ぜひこちらもどうぞ。

*1:脚注1に同じ。

*2:唯一「誰も笑わせないから」なんて歌詞があるにはあるのですが、「どうやって?」としか思えません。

*3:脚注1に同じ。

*4:脚注1に同じ。