米アイオワ州で14歳ゲイ少年が自殺


米国アイオワ州で、14歳のゲイ少年が自殺しました。家族や友人は、この少年はクラスメイトから携帯電話で「殺す」と脅されたり、フェイスブックでいじめられたりしていたと主張しているそうです。

詳細は以下。

自殺したKenneth Weishuhn Jr.さんは、今年サウス・オブライエン・ハイスクールでカミングアウトして以来、いじめの対象にされていました。きょうだいのKaylaさんによると、それまでKennethさんの友達だった子たちが敵意を示すようになり、Facebookフェイスブック)でも同性愛者に対するヘイトグループを作ってKennethさんをいじめ続けたのだそうです。

Kennethさんはお母さんに対し、「ママ、ママは憎まれるってことがどんなものだか知らないんだよ」と言っていたそうです。彼は2012年4月14日自ら命を絶ち、お葬式は地元教会で4月19日にとりおこなわれる予定だとのこと。

このニュースを読みながらずっと思い出していたのが、2007年に書いたこちらのエントリです。

これは歌手の倖田來未さんが「BUT」という曲のテーマは「同性愛」だとして、同性愛者に対して「一歩を踏み出して欲しい」「背中を押してあげる」などと語った件について述べたエントリです。ええ、同性愛者は「逃げてばかり」で「目をふさいでる」と歌うこの歌で、同性愛者の背中を押してあげると彼女は言ったんです。

「逃げてばかり」いずに「一歩踏み出して」カミングアウトしたこの少年は、実際にはいじめ殺されちゃったわけですが。能天気に「愛に性別は関係ない」と大合唱する(倖田さんもおっしゃってましたね、これ)皆さまは、どう説明するんすか、こういう現実を。好きになる相手の性別ひとつで暴力を受けるこんな社会に向かって、それでも「関係ない」と目をつぶって同性愛者の背中を押すんですかい。それ、駅のホームで見知らぬ人を無差別に突き落としてるのと変わらないとあたしは思うんですけど。「憎まれるってことがどんなものだか」わかってないでしょ?

It Gets Better ProjectLGBTユースの自殺防止のためのプロジェクト)もなかなか功を奏してないみたいだし、なんだかねえ。やるせねえなあ。

台湾の同性愛者の5人に1人が自殺未遂経験あり


台湾でおこなわれた大規模調査で、同国のゲイとレズビアンの約5人に1人が自殺未遂の経験ありだという結果が出たそうです。この調査をおこなった「フレンドリー・台湾・アライアンス」(Friendly Taiwan Alliance)は、政府やメディアや一般大衆がこのような状況を作り出しているとして、教育制度や法制度の改善を呼びかけています。

詳細は以下。

この調査は、いくつかの同性愛者団体とトランス団体の連合である「フレンドリー・台湾・アライアンス」が2700名の性的少数者を対象に実施したもの。回答者のうち35パーセントがレズビアン、39パーセントがゲイ男性、20パーセントがバイセクシュアル、2パーセントがトランスジェンダーで、4パーセントが不明と答えているとの由。

調査の結果、同性愛者のうち約3分の1が自殺を考えたことがあり、約5分の1が実際に自殺をはかった経験があると答えたとのこと。また、5人に3人は暴言や孤立に苦しんでおり、23パーセントがゲイフレンドリーな情報源や18歳以下でのサポートを得られていないと述べ、68パーセントが社会からの結婚圧力に苦しめられていると答えたそうです。

ちなみに同国の教育部(Ministry of Education)には、2011年から小中学校の教育要綱に同性愛に関する内容を盛り込むという計画がありました。ところが実際にカリキュラムに組み込まれたのは、ジェンダーの平等についてだけで、同性愛に関しては「教師の評価基準」に取り入れられたのみ。つまり、子どもには教えられていないということみたい。「フレンドリー・台湾・アライアンス」は、これを宗教的な圧力のせいだと主張しています。一方、台湾の教育部(Ministry of Education)のスポークスパースンは、計画が完全に中止になったわけではなく、「一時的に延期された」のであると述べているんだそうです。

「一時的に延期」するのならその理由を述べるぐらいすればいいのに。情報の有無は、LGBTの子どもたちにとっては死活問題なんですから。以下、ちょっと前にうちの掲示板で話題になった、ゲイブロガーりょうたさんのこのことばをもう1回引用します。


僕が自分が同性愛者だと気づいて思い悩みはじめたのは中学生のころだ。
図書館に本はなかったし、授業でも教えてくれない。親には死んでも言えなかったし級友にはもちろんだった。
あれを人生の肥やしだとか人は悩んで大きくなったとか死んでも思いたくない。
純粋な時間の無駄だった。情報は必要なのだ。

自分もりょうたさんと似たような状況にいました。純粋な時間の無駄でした。大人になってからだって、同性愛者の友人で自殺してしまった人は複数います。やはり情報は必要だし、暴言やら孤立やら結婚圧力やらといちいち戦わされるのはもううんざり。そんなわけで、これはあんまり他人事とは思えないニュースでした。

「この作品はよいか、よくないか」という話ができない人たち

百合レビューを数百本も書いていると、たくさんの反論に出くわします。「この作品はこれこれの理由でよくない」というレビューを書いたとき、もっともたくさんの反論が寄せられます。不思議なのは、そういった反論を読んで「なるほど、この作品は実はこんなに素晴らしいものだったのか!」と目を開かされることがめったにないってこと。反論者さんたちがプッシュする作品のよさ、おもしろさが、なかなか伝わってこないんです。変だ。あんなに熱心に反論してくださっているのに、どうしてだ。

……とつらつら考えていたのですが、今日謎が解けました。レビュアーと反論者とでそれぞれちがう論点(問いの立てかた)で話をしているから、会話が噛み合わないんです。論点の違いというのは、つまりこう。

  • レビュワーの論点:「この作品はよいか、よくないか」
  • 反論者の論点:「オマエ(ここではレビュアーを指します)はよいか、よくないか」

「オマエはよいか、よくないか」論というのは、たとえばこういったものです。

  • 「オマエは主観ばかりだ!」(ちなみに、どこがどう主観なのかとか、なぜ主観を書いてはいけないのかはめったに説明されない)
  • 「説が薄っぺらだ!」(ちなみに、どこがどう薄っぺらいのかとか、なぜ薄っぺらい文を書いてはいけないのかはめったに説明されない)
  • 「長すぎて読めねえよww」(短く書けないオマエが悪いと言いたいらしい)
  • 「オマエはことばづかいが悪い!」(いつから道徳教室の先生になったんですか)

レビュアーと反論者とでまったく違ったテーマの話をしているわけで、だから作品についての分析も考察も深まらず、新しい発見が少ないんです。ああもったいない。

ひょっとしたら、反論者の皆さまがたの頭の中にはこうした図式があるのかもしれません。

  • 前提1:このレビュアーは、この作品はよくないと言っている。
  • 前提2:このレビュアーは(これこれの理由で)よくない。
  • 結論:よって、この作品はよい。

しかし、前提1と2からこの結論は導けません。「この作品はよくも悪くもない」という可能性が否定できないからです。

レビュアーの「この作品はよくない」という主張に反論したいのであれば、「この作品はよいか、よくないか」という論点に立って、

  1. 相手の主張と反対の主張を論証する(『この作品はよい。根拠はこれこれこうである』と力の限りマンセーレビューを書く)
  2. 相手の主張を支える論証を切り崩す(『レビュアーの論拠はここがこのように間違っている。よってレビュアーの論証は否定される』と反証する*1

のどちらかをおこなうしかありません。つまりはアリストテレスが『弁論術』で述べた、「アンティシュロギスモス」か「エンスタシス」かのどちらかしかないんです。そのどちらの方法もとらずに「オマエはよいか、よくないか」論に終始するだけというのは、結局その作品のよさを世に伝えるつもりがないか、伝える力がないということなのでは。諦めんなよ! 諦めんなよお前! どうしてそこでやめるんだ、そこで!! もう少し頑張ってみろよ! 周りのこと思えよ、その作品を応援してる人たちのこと思ってみろって! あともうちょっとのところなんだから!

*1:ただしこの論証切り崩しタイプの反論は「相手の論証を否定はするが、相手の主張そのものを否定することはできないし、ましてこちらの主張の正しさを論証するものでもない」と、宇都宮大学教育学部教授の香西秀信氏は述べています。(『反論の技術―その意義と訓練方法』 (オピニオン叢書)p. 13.)。たとえば、ある中学生が「三角形の内角の和は180度であることを証明せよ」という数学の問題でまちがった論理展開をしたとしても、「三角形の内角の和は180度である」という主張そのものが誤りだは言えないし、ましてや「三角形の内角の和は360度だ!」という主張が正しいと言えるわけでもないということです。そういう意味でこのタイプの反論には限界があり、ことレビューという分野ではマンセーレビューの方が有効なんじゃないかと思います。