『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹、文藝春秋)感想

走ることについて語るときに僕の語ること走ることについて語るときに僕の語ること
村上 春樹

文藝春秋 2007-10-12
売り上げランキング : 1230

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

作家にしてランナーの村上春樹が「走ること」というテーマを軸にして書き下ろしたエッセイ、あるいはメモワール。面白かったです。
以下、特に印象に残ったところなど。


誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限界のある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。
これ、ランナーではなくウエイトトレーニー*1の自分にもすごくよくわかります。生きている限り他人とのすれ違いや摩擦は避けられないものですが、そこで誰かにあたるより、自分の限界をフィジカルなかたちで認識しながらそれを乗り越えていく方が、結果的には怒りや悔しさを有意義に使えている気がします。
ちなみにあたしのこれまでの人生でいちばんベンチプレスの記録が伸びたのは、反りがあわない上司に当たって日々ちくちくといびられ続けたときでした。もう二度とあんな重量は挙げられません。たぶん。


自慢するわけではないが(誰がそんなことを自慢できるだろう?)僕はそれほど頭の良い人間ではない。生身の身体を通してしか、手に触ることのできる材料を通してしか、ものごとを明確に認識することのできない人間である。何をするにせよ、いったん目に見えるかたちに換えて、それで初めて納得できる。インテリジェントというよりは、むしろフィジカルな成り立ち方をしている人間なのだ。
ここにもすごく共感しました。世の中には座したままで理論や理屈を組み立ててあらゆることをすみずみまで把握してしまえる人もいるのでしょうが、少なくとも自分はそのタイプじゃないと思うわけです。「自分は何者か」という問いにさえ、バカみたいに重い鉄の塊と戦わなければ答えが出ないのが自分です。良い悪いじゃなくて、単にそういうタイプだ、ってことですが。


筋肉は記憶し、耐える。ある程度向上もする。しかし妥協をしてはくれない。融通をはかってもくれない。しかし何はともあれ、これが僕の肉体である。限界と傾向を持った、僕の肉体なのだ。顔や才能と同じで、気に入らないところがあっても、ほかに持ち合わせはないから、それで乗り切っていくしかない。年齢を重ねると、そういう按配が自然にできるようになってくる。冷蔵庫を開けて、そこに残っているものだけを使って、適当な(そして幾分は気の利いた)料理がすらすらと作れるようになる。リンゴとタマネギとチーズと梅干ししかなくても、文句は言わない。あるだけのもので我慢する。何かがあるだけでもありがたいのだと思う。そんな風に思えるのは、年を取ることに数少ないメリットのひとつだ。
ここも面白かったです。
リンゴとタマネギとチーズと梅干ししかないのに「私はフルコース料理にふさわしい人間なのだ! 食材が揃ってないのは世間が(あるいは親が、異性が、時代が、etc.)悪いのだ!」とじたばたしたり、「フルコース料理が作れないんだからもう自分の人生は何をやってもダメだ」と嘆いてみたりするのは、結局は若いってことなんですね。
そう考えてみると、肉体という究極のリアリズムに向き合うことは、己の器をはかるにはとても良い方法なのかもしれません。いくら文句を言ったって誰かが「冷蔵庫」にそっと差し入れしてくれるわけでもないし、努力したって無限に能力を伸ばせるものではないし、結局は「あるだけのもの」で真摯に愚直にやっていくしかないってことが、文字通り身体で納得できますからね。

そんなこんなで、とても面白い一冊でした。村上春樹好きのアスリートなら必読でしょう。

*1:昔は週20〜30kmぐらい走っていましたが、膝を壊してやめました。