朝青龍の一件に思うこと

以前行っていたジムに、体重100kg超と思われるでっかい少年がよく来ていました。顔を見ると10代後半ぐらい。最初は「肥満解消のために来ているのかな」と思ったのですが、この少年の運動能力が凄いんです。有酸素運動こそ苦手そうなのですが、ウエイトマシンではどの種目もおそろしく重い負荷にセットして軽々と挙げているんですよ。おまけにストレッチでは綺麗に180度開脚して上半身全部をぺったり床につけられるという柔軟さ。話しかけて仲良くなってからわかったのですが、彼は膝の怪我のために18歳で相撲部屋を引退したばかりの元力士だったのでした。
「膝の怪我って……90度レッグプレスマシンを最高重量にセットして楽々挙げられてるのに、それでも復帰ってできないものなの?」
とあたしが聞くと、彼はにやりと笑い、「ネエさん(と彼はあたしのことを呼んでいました)、ちょっとそこに乗ってみな」とマシンのてっぺんを指差しました。「乗ってもいいけど、何すんの?」とあたしがそこによじ登ると、彼はなんと、マシンの最高重量+あたしの体重(50kg)という負荷を、まるで「高い高い」をするお父さんのように余裕で何度も挙げてみせたのでした。
ボディビルダーだろうとパワーリフターだろうと、そんな高重量を笑いながらひょいひょい挙げられる人なんて、あたしは他に見たことがありません。驚くあたしに、彼は、「今でもこれぐらいは簡単にできるよ。でも、こんなもんじゃ相撲の世界ではぜんぜん通用しないんだ」と言って、以下のような話をしてくれたのでした。

俺はね、小学校の頃から柔道をやってて、体もデカかったんだ。中学ではものすごいスパルタ指導を受けて、すさまじい練習をした。怪我もしたけど、両腿肉離れした状態ですら、試合を休まなかったよ。死ぬほど頑張って、全国大会でもいいところまで行って、相撲部屋からスカウトが来た。それで、15歳で入門した。
そのときまで俺は、「自分は強い」と思ってたんだ。体も大きかったし、試合でも全国○位(一桁です)まで行ってたし。ところがさ、部屋に入って最初のぶつかり稽古で、俺は一瞬で土俵下まで吹っ飛ばされたんだよ。
そのぶつかり稽古の相手っていうのが、俺より1、2年先に入ったばかりの、つまり16〜17歳ぐらいの兄弟子なわけ。まだ細っこくて、見た目はただのひょろひょろな人なんだよ。ところが、「思いっきりぶつかって来い」って言われてその通りに突っ込んで行っても、一瞬で弾き飛ばされちゃって全然歯が立たないの。ぶつかろうと投げに行こうと、もう何やっても勝てない。こっちはただ吹っ飛ばされて転がされるだけ。
番付が下の方の兄弟子でもそれぐらい強いんだから、幕内だの十両だのっていうのは、もう化け物だよ。日本中から強いやつばっかり集めて戦わせて、それで勝ち残った人ばっかりなんだから、化け物のピラミッドの頂点みたいなもん。体ひとつとってもね、もう表面が鋼鉄みたいなんだ。小錦みたいな体型の力士を見ると、一般の人は「ぶよぶよして柔らかそう」って思うでしょ? あれ、違うんだよ。鉄みたいに硬いんだ。それが何百キロもの重さで加速をかけてぶち当たってくるんだから、下手したらそれだけで失神ものだよ。
力? うん、力もすごいよ、みんな。ちょっとこの歯、見てよ。(と、彼は口を大きく開けました)奥歯が全部パカッと割れちゃってるでしょ? 稽古で張り手をくらうだけで、簡単に割れちゃうんだよね。あんな張り手、普通の人がくらったら、死ぬか大怪我をするよ。相撲っていうのは、そういう馬鹿力のモンスターが戦う競技なんだ。
俺は入門時に兄弟子に負けた悔しさで、必死で稽古をしたよ。みんなが稽古後の昼寝をしている時間も、近所のトレーニングジムに行って死に物狂いでバーベルを挙げた。ベンチプレスなんて150kg以上挙がるようになったよ。それでスピード昇進もしたけど、結局、取り組みで膝を壊して引退したんだ。今でも普通の人よりは力もあるし、日常生活では何も困らない。でも、相撲の世界で戦っていくのはもう無理なんだ。化け物みたいな連中の中で戦うには、この程度の回復具合じゃ無理なんだよ。

……こういう話を聞いているので、あたしは、朝青龍の仮病疑惑については半信半疑でいます。いくらお遊びのサッカーを軽やかにやれるといっても、それぐらいで通用するようなぬるい世界ではないんじゃないですか、角界って? だからあれは、ひょっとしたら、「日本人力士なら、たとえ軽くサッカーできる程度には回復していてもいろいろ慮って自重したところを、たまたまモンゴル人力士である朝青龍は自重しなかった」というだけの話かもなあ、と思ったりしています。結局は医師が判断するしかないことではありますけれどもね。