「自分は同性愛者ではありません」とアピールする人々について

きのうの日記の最後の方でちょこっと書いた、「自分のセクシュアリティについて語らず、『同性愛者ではありません』とだけ連呼する人々」について、補足です。
その人のセクシュアリティが何であれ、あたしはこういう物言いをする人たちがあまり好きではありません。その理由を以下に述べます。

Aが偽ならば、Bは真か?

まず嫌なのは、これらの発言をする人が、

  • 命題A「私は同性愛者である」
  • 命題B「私は異性愛者である」

というふたつの命題の間に排中律が成り立つと思い込んでいそうなところです。
排中律とは、「Aが偽であればBは真である」という関係を指します。ですから、もしも上記の命題ABの間に排中律が成り立っているのであれば、

  • 「命題Aは偽である(=私は同性愛者ではない)」

と証明すれば、自動的に

  • 「命題Bは真である(=私は異性愛者である)」

と証明できることになります。
けれども、そもそも上記AとBの間に排中律は成り立っていないんです。世の中は同性愛者と異性愛者だけで構成されているわけではありません。Aセクシュアルバイセクシュアルの人もいれば、クイアを名乗るのが一番しっくりくる、という人もいます。自分のセクシュアリティがわからない人も、そもそもカテゴライズ自体をしたくない人もいます。ですから、いくら「私は同性愛者でありません」と発言したところで、それは論理的にはほぼ無意味なんですね。そのことにまったく気づいていなさそうな鈍感さが、まず嫌です。

その他に考えられること

次に考えられるのは、そのような発言をする人は自分のセクシュアリティについて真剣に考えたことがないか、あるいは現在模索中でまだ答えが出ていない、ということです。つまり、現時点では「自分はこうである」と言い切ることができないから、とりあえず「自分はああではない、こうではない」という否定形で語っている、ということですね。さらに、ものすごく穿った見方をするのなら、その人は同性愛者以外のクローゼットなセクシュアルマイノリティであって、それでもなるべく嘘はつきたくないと考えている、ということも考えられます。しかし、そのどちらであるにしても、己のセクシュアリティについて語るのに「自分は同性愛者ではない」という物言いを繰り返すのは失礼なことであるとあたしは考えます。

なぜ「同性愛者ではありません」と連呼するのは失礼なのか

それは、そこにはっきりと、「同性愛者だと思われたくない」という意思が現れているからです。自分のセクシュアリティについて語るべき場所で、自分と違うセクシュアリティへの嫌悪感・違和感をひたすら露呈して終わりというのは怠慢であり、かつ失礼です。なぜ、「自分は異性愛者である」という代わりに、あるいは「自分はセクシュアリティについて真剣に考えたことがない/模索中である/語りたくない」などと言う代わりに、いちいち内なる同性愛嫌悪を表明して回らなければならないんでしょう? 言葉は悪いんですが、「オマエ自分のちんこまんこの使い方について語りたくない(あるいは考えたくない)ばっかりに、他人のちんこまんこの使い方を否定*1して終わりかよ」と思いますね、あたしは。

まとめ

自分のセクシュアリティの表明にあたって、「同性愛者ではありません」としか言えない人は、

  • 異性愛*2だと自認しているのなら「異性愛者です」と
  • 自分のセクがよくわかっていないのなら「わかりません」あるいは「模索中です」と
  • セクを表明したくないだけなら「言いたくありません」と

責任持ってきちんと言ってほしいもんだと思います。いちいち他人のセクシュアリティをネガティブな形でダシにしなけりゃ何も語れないというのなら、いっそ最初からその口を閉じててくれればいいんだわっ!

*1:発話者側は「否定」というほどの強い意味合いは持たせていないつもりであっても、少なくとも「同一視されるのは嫌だ」という意思表示ではあるわけです。そこになんかモヤモヤします。

*2:ただ、目が不自由でない人は案外「晴眼者」(視覚障害がない人)ということばを知らないように、生まれてこのかたずっと異性愛者だった人はかえって「異性愛者」とか「ヘテロセクシュアル」ということばになじみがない場合が多いのかも、とは思います。それでかえって「そんなヘンなことばを使ったら、かえってホモだと疑われるんじゃないか」みたいな恐怖感にかられてしまう、ということはあるのかも。難しいわよねー、いろいろと。