最近の3エントリのまとめ、あるいは「物語」依存について
最近の3エントリのまとめ
まず、最近わりと反応の大きかった3エントリの内容を、簡単に要約してみます。
- 「二丁目に捨てる物無し」(2006-10-07)の要約
- 「商業主義の煽り文句に騙されなければ、恋愛における好みのタイプの幅ってもっと広がると思う」
- 「所詮、女は顔で男を選ぶんだよ!」と言っている男の子は、まず自分の父ちゃんの顔をよく見るべき(2006-10-16)の要約
- 「男性も女性も、美醜だけで相手を選ぶのではない」
- 「最も身近な異性とは『異性の親』である。そこを無視して、異性を想像(または妄想)だけでステレオタイプ化するのは滑稽」
- 10月16日のエントリ「『所詮、女は顔で男を選ぶんだよ!』と言っている男の子は、まず自分の父ちゃんの顔をよく見るべき」についてタネ明かし(2006-10-18)の要約
「物語」依存について
上記3エントリは全て、「『物語』の閉鎖性を打破することの難しさと大切さ」にまつわる話です。ここで言う「物語」とは、「必ずしも事実に基づかない『思い込み』あるいは『お約束』」のことだと思ってください。「偏ったパターン化」と言ってもいいかな。つまり、商品を売りつけるための「これを買わなければ異性に相手にされないぞ!」という脅迫も、「最近の○○は(男は、女は、etc.)みんなこうだ!」という思い込みも、全て、客観性や整合性に欠けた「物語」であり、「現実の偏ったパターン化」だということです。
「物語」には、パターン認識を容易にし、人間の不安を減少させるという利点があります。だから、おそらく人は皆(つまり、これを書いているワタシも、読んでいるアナタも)、無意識のうちになんらかの物語をツールとして使っているはずです。けれども、単純化された狭い「物語」に極端にはまり切ってしまうことは、思考の硬直化を招き、益よりも害の方を多く生み出します。自分の「物語」に固執するあまり、「物語」に適合しない事実から目をそらし続けるとか、「物語」を脅かしそうな単語やフレーズに文脈無視で反応して他者を攻撃するとかいうところまで来たら、その人は相当不健康な「物語依存」状態に陥っているんじゃないでしょうか。それはまるで、アルコール依存症患者がプルプルと震える手でワンカップ大関をあおりながら「酒さえ飲めば仕事に行けてるんだから自分はアル中じゃない」と症状を否認したり、テレビを見ながら談笑する家族に突然逆上して「お前らは今、オレを/ワタシを笑いものにしたなー!?」と包丁を振り回して暴れるようなものだとあたしは思っています。そこまで行ってしまったら、もう誰かの血が流れるだけで、その「物語」はもはや誰も幸せにはしてくれません。
まとめると、「誰でも(つまり、アナタもワタシも)不健康な物語依存に陥らないよう、せめて『物語』の意識化や相対化ぐらいはしてみた方がいいんじゃないか」というのが、上記3エントリに共通するテーマです。このへんの話↓とも通じるものがありますね。
物語の閉鎖性を完全に打破することはできない。無理に打破しようとしても、「偽りの歴史からの解放」を揚げたマルクス主義とか、オウム真理教のハルマゲドンの戦いのようなことにしかならない。全面的な”解放”は有り得ないことを認めたうえで、自分が依拠している「物語」がどういう性質のものか常に意識し続けることが必要だと思う。自分では見えにくい自分自身の「立ち位置」を何とか相対化して、「違う物語」を有する――ように見える――相手に対して説明しようとする努力を続けることが重要である。その過程で、相手から自分がどのように見えているかを知ることで、自分の「物語」をより客観的に捉え直せるかもしれない。そうした相互手探りの状態での「物語」間対話は、非常にもどかしい。確認すべきことが多すぎて、なかなか先に進んでいかないような気がする。やたらに疲れる。しかしながら、「大きな物語=歴史」が崩壊してしまった”後”に生きている私たちは、もはや絶対的に依拠していると同時に普遍的に通用する”物語”に依拠することはできない。安定性と、通用性の間でバランスを取らねばならない。ポストモダン状況にあってワン君*1にならないためには、その面倒くささに耐えるしかないのだ。以上、まとめでした。