「すべての人」なんて文言があてになるもんか

上記記事によると、都城市男女共同参画社会づくり条例から、「性的指向によって差別してはならない」という意味の部分が削除されたそうです。削除理由は、「すべての人」という表現で性的少数者も包括できるためだとか。
バカじゃないの? 
ある人がイメージする「すべての人」が本当にすべての人を包括しうると思うなんて、マジョリティーの驕りというもんですよ。たとえば、フランス人権宣言は「すべての人は生まれながらにして自由で平等である」と宣言しましたが、その「すべての人」とは白人フランス人の、しかも男性のことしか指してませんでしたよね。それから、初期のフェミニズムは「女性を解放する」といいながら、実際には白人中産階級異性愛者女性のことしか考えていませんでしたよね。それと同じで、異性愛者が安易に持ち出す*1「すべての人」とか「普通の人」とか「市井の人」(笑/参考)なんて表現は、それだけではセクシュアルマイノリティーにとってはほとんど信用できないものだと思います。
「いや、自分は異性愛者だが性的少数者のこともちゃんと考えているぞ!」という方もたくさんいらっしゃるとは思います。けれど、アナタのお父さんお母さんもそうですか? おじいさんおばあさんは? 配偶者さんやお子さんや、会社や学校の人たちは? 性的少数者に偏見がない(「自称『偏見がない』」じゃダメですよ。実際に性的少数者から「偏見がない人」と評された人のことですよ)人が、アナタの周りにどれだけいますか? 100パーセントだというのなら、あたしも認識を改めましょう。でも現実には、そうではありませんからね。
というわけで、このような条例には、きちんと目に見える形で具体的に「性的指向で差別するのはダメ」と書くことが大切だと思います。そうしたがらないこと自体が既に「すべての人(セクシュアルマイノリティーを含む、本当にすべての人)」の権利など尊重したくないと宣言しているのと同じです。まったく恥ずかしい態度ですね、都城市のこれは。

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*1:万が一にも都城市の市会議員の過半数が非ヘテロであった場合、この「異性愛者が持ち出す」という表現は謹んで取り下げます。