「百合作品には同性愛嫌悪的な要素が必要」という嗜好を、ナルチシズム論を使って説明しようという試み

※長文を読むのがキライな方は、上のエントリに書いた要約を読んでくだされば事足りると思います。

同性愛嫌悪が大好きな百合好きさんたちの認識は、微妙にズレている

世の中には百合作品の中の「レズなんて気持ち悪がられて当然」とか「告白したら嫌がられるに決まっている」とかいう同性愛嫌悪的な要素をことさら好む層というのがあります。「悩んでこそ百合」「障害があってこそ百合」ってわけですな。「創作作品だけでなく、現実のレズビアンもそうであるはず! そうでなきゃおかしい!」とかたくなに信じている人も存在しますね、ちなみに。
しかしだ、あたしの友人(ノンケ女子)の実験によると、現実はそこまで強固な一枚岩のホモフォビックワールドというわけでもないんですよ*1。この友人というのが面白い子で、あたしにカミングアウトされた後、自分の友人一同に「もし私が同性愛者だったらどうする?」と真顔で聞いて回ってみたんだそうです。結果は「一部に『気持ち悪い』『理解できない』って強烈な拒否反応を示す子もいたけど、『だから何?』『別にいいじゃん』っていう人の方が多かった」とのこと。つまり、当たり前だけど、「同性愛を気持ち悪がる人もいるし、そうでない人もいる」というのが現実世界です。あと、「告白したら嫌がられて当然」ってのもちょっと違う。「嫌がる人もいるし、喜ぶ人もいる」というのが正確なところでしょ。というわけで、「♀♀関係なら何がなんでも同性愛嫌悪の要素がなくては!!!」というのは単なる「同性愛嫌悪大好きっ子」さんたちの嗜好に過ぎず、必ずしも現実とは一致してはいないとあたしは考えます。

岸田秀のナルチシズム論を使って「同性愛嫌悪大好きっ子」の嗜好を説明してみる

なぜこうした人たちはホモフォビックなフレーバーが大好きなのか。『ものぐさ精神分析』岸田秀中央公論社)という古い本の中の「ナルチシズム論」の概念を使って説明できそうな気がしたので、以下に本からの引用を混ぜつつ自説を述べてみます。
あたしの仮説はこうです。

  • 「同性愛嫌悪大好きっ子」さんは、創作百合においては、一方のキャラに幻想我を、もう一方のキャラに現実我を投影している。
  • 己の幻想我を保存するために、彼ら/彼女らは「なかなか成就しない恋愛」という図式を必要としている。
  • 恋愛をなかなか成就させないための装置として、彼ら/彼女らは同性愛嫌悪を必要とする。

幻想我とは「非現実の幻想の中の(対象と区別されていない)自己」であり、「高揚した全能感と無限の幸福につながる幻想の自画像」です。それに対し、現実我とは「現実的自己」を指します。岸田は「幻想我の保存にナルチドー*2が向けられている状態」をナルチシズムと定義し、以下のような説を展開しています。


幻想我は容易に他者と区別される。この条件を利用して、幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影するのである。ベアトリーチェに対するダンテ、ロッテに対するウェルテルの恋愛のような、片想い的形態の恋愛はこの範疇に入るであろう。対象が幻想我と同一視されると、それまで自己の内側において演じられていた幻想我と現実我の葛藤は、その場面がずらされて、理想化された、近づきがたい存在としての恋人と、その愛にあこがれながらも愛されるに値しないつまらぬ存在としての自分との対比という形を取る。恋人は唯一無二の存在であり、この世のものならぬ美しさを具えている。その価値は無限であり、恋人のためなら、どのような犠牲も惜しくない。恋人に捧げる愛は、いっさいの現実的考慮を超えた無条件、無償、無限の愛である(もちろん、幻想のレベルで)。
「近づきがたい存在としての恋人と、その愛にあこがれながらも愛されるに値しないつまらぬ存在としての自分との対比」という図式は、百合作品の中で山ほど見かけますね。完全無欠な美しい「お姉様」と平凡でドジっ子の後輩とか。そのような構造の中では、「お姉様」に幻想我が、「ドジな後輩」に現実我が投影されているわけです。で、「つまらぬ存在としての自分」を強調するために、「女の子が好きな私なんてヘン」というイデオロギーが必要以上に強調されてたりもするんだよね、ナルチシスト*3向けの百合作品だと。

しかし、内的葛藤の解決法としてのこの種の恋愛は、非常にあぶなっかしいバランスの上に立っており、脆く崩れやすい。恋人が離れていってしまっても、近寄ってき過ぎても、この種の恋愛は破綻する。幻想我と同一視された恋人に拒否され、見捨てられた現実我は絶望と劣等感の地獄に落ちるであろう。恋人が近づいてきて現実のレベルで自分のものになれば、もはや幻想我と同一視することは不可能となり、外在化されていた葛藤はふたたび内面に押し戻されてもとのもくあみである。そのいずれになっても困るので、この種の恋愛物は、恋人が去っていってしまいそうになるとあらゆる努力を払って引き寄せようとし、近づいてきそうになると、のぞき見しているところを見つかって相手の女が近づいてきたときの窃視症患者のように、あわてて逃げ出す。
美しいお姉様と平凡なドジっ子が、「あなたが好き!」「嬉しい、私も!」とかんたんにくっついちゃうと、ナルチシストな百合好きさんは困るわけですよ。せっかく投影した幻想我と現実我が一瞬でくっついてしまったのでは、己のナルチシズムを処理できなくなるわけですから。だから、恋愛をなかなか安定させず、幻想我と現実我の間の距離を保つための安直な装置として、彼ら/彼女らはキャラクタに内面化されたホモフォビアを必要とするのだと思います。「やっぱり百合には悩みや葛藤がなきゃ」とうっとりするとき、彼ら/彼女らはキャラクタの悩みや葛藤という装置を使って安全に己のナルチシズムに対処できる幸せに酔っているのです。
それから、「恋人が去っていってしまいそうになるとあらゆる努力を払って引き寄せようとし、近づいてきそうになると(中略)あわてて逃げ出す」のくだりは、思春期ウジウジ百合ストーリー(と命名)に非常にありがちなパターンですね。異性愛を描いたラブコメなどにも同じような展開のものはたくさんあることですし、そのようなパターン自体に問題はないと思います。しかし、百合ストーリーにおいてはキャラ同士がなかなかくっつかない理由としてホモフォビックな要素(「女同士なんて変」と自分を責める鬱展開など)ばかりが使われがちなのがとても残念です。この残念な気持ちは、主に以下の2点に由来していると思います。

  1. 同工異曲のものばかりが氾濫すると、ジャンル全体がつまらなくなる
  2. 女性同士の恋愛にはただでさえロールモデルが少ないのに、ネガティブなステレオタイプばかりを喧伝されるのは迷惑

まとめ

百合ジャンルにおける「同性愛嫌悪大好きっ子」さんたちはナルチシストです。己の内部の幻想我と現実我の葛藤から逃れるため、彼ら/彼女らはその葛藤を「百合作品」という外注に出します。彼ら/彼女らが同性愛嫌悪的な表現を好むのは、それが作品に投影した幻想我と現実我の間の距離を保つのに好都合だからです。現実のレズビアンでも、恋の相手に光り輝く幻想我を投影し、それに比べて私は同性が好きな変態なんだからダメだわダメだわと現実我を卑下して心の安定を保つ人というのはやっぱりいますけども、結論としては、「どちらも勝手にやってください、でもアナタの葛藤処理のために必要以上に同性愛嫌悪を美化すんのは勘弁な」ってとこですね。

*1:ユタ州とかならまた話は違うんだろうけどね。

*2:岸田秀の造語。個体保存のエネルギーを指す。

*3:この文章の中における「ナルチシスト」とは「『自分大好き』な変人」という意味ではありません。岸田の論では「人間はみんな結局はエゴイストであるということが言われるが、人格発達の立場から言えば、人間は、エゴイストである前にまずナルチシストである。発達の結果、不本意ながらエゴイストになるに過ぎず、しかも、この発達はつねに不完全にとどまり、個人差が非常に大きく、現実我を知らなかった、つまりエゴイズムが存在しなかったかつての完全なナルチシズムの状態を回復したいあこがれが消滅することはない」とされています。