腐の世界のクィア性について、掲示板より転載(その1) - 長い長い前提

今月の初め頃から、うちの掲示板で、「腐女子クィア性について」という話題が続いていました。ひとことでまとめると、「腐の世界の住人は『ヘテロセクシュアルでありながらクィア』でありうる可能性を持っているのではないか」という話です。
で、のだださん(id:nodadaさん)から、今日あたしが掲示板に書いた内容を『みやきち日記』に転載してほしいとリクエストをいただきましたので、その書き込みに至るまでの掲示板の流れを簡単にまとめて*1からコピペで転載したいと思います。
最初に大前提をいくつか書いておきます。

  • みやきちは801やBLについてたいして造詣が深くありません。同人誌をせいぜい平積みにして2メートル分ぐらい読んだことがあるだけという底の浅さなので、みやきちがこの分野について何か言ってもあまりあてにはなりません。
  • 以下の文中で、「やおいヤオイ・801」「腐」/「ヤオラー」「腐女子」「やおい者・ヤオイ者」などの用語・表記は統一されておりません。たくさんのビューワー様とのやりとりをまとめたから、ということもありますが、「いつでもこの表記が正しい」という絶対的な基準は今の時点ではなさそうだとみやきちが判断したからでもあります。これらの用語のどれかをご不快に思われる方がいらしたら、謹んでお詫び申し上げます。
  • 掲示板から書き込みを引用させていただいたビューワー様のうち、特にやおいに詳しい方は、のだださん(ブログ『腐男子じゃないけど、ゲイじゃない』の他、『のだだがBL読んだ』というBLレビューサイトもお持ちです)と橘さん(『暴露すると結構ヤオラー』とのこと)のお二方です*2
  • クィアって何?」とお思いの方は、とりあえず以下の情報リソースをどうぞ。

次に、後ほど挙げる本編(コピペ転載記事)の前提として、4月4日〜4月8日の掲示板からのダイジェストをどうぞ。

1. 「腐の世界のクィア性」について、みやきちとのだださんのやりとり

投稿者:みやきち 投稿日: 4月 4日(水)11時38分50秒
異性愛者でありつつ、男同士の絡み(または友情とか関係性とかいろいろ)を部外者の立場で眺めて興奮する」というのは、「異性を好きになって異性同士一対一でサカるのが正しい」という異性愛規範(より正確には、モノガマスな性器結合主義をともなう異性愛規範)からは実はちょっとズレているわけで、そのへんには腐女子クィア性というか、「ヘテロセクシュアルでありながらクィア」な部分があるのかも、という気もしますね。

投稿者:のだだ 投稿日: 4月 4日(水)19時16分21秒
腐の世界でも、セクシュアリティへの理解(←同性愛への理解ではなく)が生まれる可能性を、私は信じたいと思ってます。(確かに異性愛をノーマルと言って憚らない態度にはいつも少し涙ですけど^^;)
そのためにはどのような戦略が成り立つかはわかりませんが・・・。でも、腐の世界にも、よい人やよいところが一杯あるので、私は期待したいです☆
ちなみにのだださんはこの話題について、ご自身のブログで「腐男子じゃないけど、ゲイじゃない - 腐女子の欲望のモヤモヤ。」というエントリもあげてくださっています。

2. ロボやおいの衝撃、あるいは腐の世界の広大さについて

引用部分には入っていませんが、上記のやりとりの中でみやきちは「やおい穴」ということばを使っています。それを検索されたついでに、衝撃の事実を発見されたビューワー様が登場。

投稿者:かがみ 投稿日: 4月 5日(木)12時54分50秒
よくわからない言葉をwikiにおすがりして教えていただいたかがみです。

知らなかった…ていうか「ロボやおい」って…
人間の文化(というか、欲望・妄想)って、はてしないのだなあ…

そして自分も「ロボやおい - Wikipedia」を見に行ってみて腰を抜かしたみやきち。「単に『同性とつきあってます』というだけの自分なんてまだまだひよっこな気がしてきました。世界は広いですね……」と掲示板に書いたところ、また別のビューワー様から興味深いお話が。
投稿者:RYOTA 投稿日: 4月 5日(木)19時06分20秒
(引用者注:以前RYOTAさんが読まれたやおいについてのサイトで)「やおらーは電柱にでも物質にでも萌えられるよう自己を鍛錬する武士のようなものである」とあったのに驚きました。
「すげー!」と思う一方「意味ねー!」と思った自分も武士にはなれないと思います。
はっ!ーもしかして、アンドレ・ブルトンの「アイロンとコウモリ傘が手術台の上で出会ったようにうつくしい」というのも、あれはやおいだったのでしょうか。
腐女子シュルレアリストを超えたのでしょうか。
ますますよく分かりません。僕農民でいいです。

そしてこの後、衝撃にうちふるえる上記3名(いや、うちふるえてたのはみやきちだけかもしれませんが)をよそに、「ロボなんて、まだ結構人間ぽい。かけぶとんとしきぶとんのどっちが受けか攻めかで一晩語り明かせる」(橘さん)、「ロボはワリと人間ですよね。子供の頃の妄想ネタは主にマイトガインでした」(のだださん)など、「武士」の方々からの余裕のご発言が続き、腐でない者は腐な世界の広大さにただただ圧倒されるのでした。

3. 再び「腐の世界とクィア」について

その後、ロボやおいはまだ余裕、ヤオラーにも実にさまざまな人がいるという話の流れを受けて、みやきちがこんなことを書きます。

投稿者:みやきち 投稿日: 4月 7日(土)22時36分12秒
「男同士の関係を描く創作物」という1点だけを共有して、あとは全方位に「ゆらぎ」が広がっているという感じなのでしょうか。
そういうゆらぎをよしとする豊かさ・寛容さが、のだださんやあたしが感じた「腐女子(または、ヤオラー)のクィア性」なのかもしれませんね。

それに対する橘さんの反論。

投稿者:橘 投稿日: 4月 8日(日)01時06分10秒
なんていうのでしょうか……”ヤオイは「少女のような美少年とサラリーマンの恋愛性交モノ」も「体毛豊かな大男のプラトニックラブ」も含めているから、ヤオイ者は寛大でクィア性を感じる”というなら、”異性愛は「60歳女性と18歳男性の婚姻」も「18歳女性と18歳男性の火遊び」まで、含めているから、異性愛者は寛大でクィア性を感じる”と言い換えられると思うんですが、どうでしょう?
(引用者中略)私がヤオイに感じるクィア性は、「主流でないところ」です。大っぴらにできない、何処か後ろめたさを感じさせられる趣味をもったこといから、他の人の痛みを推測できないか。大勢が認めるものが一番!という考え方に異論を唱えたのだから、その気持ちを外にも向けられないか、そう思います。その点での柔軟性はあると思います。

ここまでが、転載前の「長い長い前提」です。
『腐の世界のクィア性について、掲示板より転載(その2) - 本編』に続きます)

*1:実際にはもっともっと膨大なログがあるので、このまとめには入りきらなかった視点や議論もたくさんあります。何か「この視点からの発想がない!」とお思いの点がおありの方は、まず掲示板のログの方を全部お読みになってくださいね。

*2:違っていましたらご連絡ください。謝罪して訂正いたします。>ビューワー様がた

腐の世界のクィア性について、掲示板より転載(その2) - 本編

「腐の世界のクィア性について、掲示板より転載(その1) - 長い長い前提」の続きです。以下、みやきちが4月8日に掲示板に書いた内容をコピペでそのまま転載しておきます。

投稿者:みやきち 投稿日: 4月 8日(日)07時01分37秒
筆力が足りなくてうまく書けなかったのですが、前回の書き込みであたしが言いたかったのは、「『腐女子の』豊かさ・寛容さ」ではなくて、「『801というジャンルの』豊かさ・寛容さ」だということをまず申し上げておきます。

ヤオイは「少女のような美少年とサラリーマンの恋愛性交モノ」も「体毛豊かな大男のプラトニックラブ」も含めているから、ヤオイ者は寛大でクィア性を感じる”というなら、”異性愛は「60歳女性と18歳男性の婚姻」も「18歳女性と18歳男性の火遊び」まで、含めているから、異性愛者は寛大でクィア性を感じる”と言い換えられると思うんですが、どうでしょう?

やおい者の方がよりゆらぎに自覚的(になるチャンスが多い)だというだけで、異性愛だって実は豊かなゆらぎの宝庫だと思いますよ。クィア理論では、「異性愛者もクィアになれる」としていますが、それは異性愛者イコール規範にしばられた存在というわけではないからです。

※ここからはあたしなりのクィア理論の解釈なので、間違っていたらごめんなさい(そもそもバトラー読んだのすら2年ぐらい前ですし)

異性愛者であろうと性的少数者であろうと、自分と規範とのズレを是とできるかどうかが、クィアになれるかどうかの境目だと思います。(『人と違う自分カッコイイ☆』というのではなくて―そういうのはただの規範盲信の裏返しですから―『違っているのは、あたりまえのこと』と淡々と納得できるかとうか、ということです)

「60歳女性と18歳男性の婚姻」を恥じている、あるいは軽蔑しているだけの異性愛者はただの「ストレート」(『異性愛者』という意味ではなく、クィアの反意語としてのストレート)でしょう。けれども「60歳女性と18歳男性の婚姻? 別にいいじゃない?」と言える異性愛者は立派に「異性愛者でクィア」を名乗れるのではないかと思います。

腐女子さんがたについても同じです。全ての腐女子さんがクィアになれるわけではなく、特に異性愛規範をガチガチに内面化されている方や、カップリング論争で「自分の嗜好/指向こそが『正しい』」と一面的な価値観を振り回す方々は、どうあがいてもただの「ストレート」でしかないでしょう。
でも、801というジャンルの中では、ヘテロセクシュアルの読み手/書き手であっても自分の指向/嗜好と一般的な性規範とのズレを否応なしに意識させられる機会が比較的多いんじゃないかと思うんですよ。そこでただ「これはよくないことだ、おおっぴらにできないことだ」と自分を恥じるだけで終わってしまうか、そこから一歩踏み込んで「一般的によしとされている基準とは違うけど、自分はこれでいいんです」というところまで行けるかがクィア⇔ストレートの境目なんじゃないか、という気がします。

そのへんは、

私がヤオイに感じるクィア性は、「主流でないところ」です。大っぴらにできない、何処か後ろめたさを感じさせられる趣味をもったこといから、他の人の痛みを推測できないか。大勢が認めるものが一番!という考え方に異論を唱えたのだから、その気持ちを外にも向けられないか、そう思います。その点での柔軟性はあると思います。

という橘さんのお話ともつながってくると思います。

おしまい。(こんなもんでどうでしょうか、のだださん?)