「自然=よいもの」という発想をもとにした論法はなぜダメなのか

以下は、一部の異性愛者が愛好する「同性愛(や、その他のセクシュアルマイノリティ)は不自然、異性愛は自然、自然なオレサマ/アテクシは偉い」という屁理屈を鼻で笑い飛ばすためのメモ。

「自然=よいもの」という発想をもとにした論法はなぜダメなのか

2006年12月28日の日記で紹介した『ダメな議論―論理思考で見抜く』(飯田泰之、ちくま文庫)では、次の2つの例文をもとに、「○○は通常・自然な状態だからその方がよい」という論法がダメな理由が説明されています。

  • 例文1:(小泉政権構造改革に対する批判で)「従来の経済構造に人為的にメスを入れることで、これまで積み上げられてきた日本社会の自然な姿が崩壊した」
  • 例文2:(量的緩和政策に対する批判で)「中央銀行が無理矢理マネーをじゃぶじゃぶ供給したせいで、通常時の金融市場の働きが妨げられた」

さて、これら2つの論法はなぜダメなのか。飯田氏の意見は、こうです。(強調は引用者)


このような「自然信仰」は論理性に乏しく、時として不自然です。構造改革前の日本経済や量的緩和前の金融市場が「自然」であるという考え方は、無批判な現状肯定主義にすぎません。
「社会の自然な状態」という文言には明確な定義がありません。その結果、「自分が何となくよいと思っていることや状態」を「自然」「通常」という言葉に置き換えて納得してしまいがちになります。(引用者中略)「通常・自然だからその方がよい」という考え方は、「通常」「自然」ということばの中に「正しい」という意味を含んでしまっているため、単なる同義反復にすぎないのです。
(引用者中略)
自然論法は、政策提案を戦略的につぶすために多く用いられます。長く行われてきた方法に異議が生じたとき、「これまで行われてきたこと=自然=よいもの」という反論を展開するわけです。二つ目のイコールは極めて怪しく、自然の定義次第でどうにでもなると言っていいでしょう。
飯田泰之.(2006).『ダメな議論―論理思考で見抜く』.(pp.106-108).筑摩書房.)
異性愛=自然=よいもの」という論法が無内容であることが、これでおわかりいただけましたでしょうか。「自然=よいもの」という等式自体が極めて怪しい以上、このような言説には何の意味もありません。それでもどうしても「自然とは無条件によいものなのだあっ!」と主張なさりたい向きは、海の大自然が育んだトラフグからとったテトロドトキシンか、山の大自然が育てたトリカブト由来のアルカロイドでも大量摂取されてみたらいかがかしら。「この『自然』はよいが、あの『自然』はよくない」などと恣意的に分けるのだとしたら、そりゃ「自然=よいもの」なんではなく、「自分が好きなもの=自然=よいもの」だと決め付けてるだけですよ。