ハンディのある側からの「笑い」の逆襲

「笑い」についての評論「笑う門には」の、このあたり(p52)が特に興味深かったです。

ハンディキャップを笑う笑いはイージーだ。芸人がてっとり早くそちらへ流れるのも解る。しかし一方で、ハンディのある側からの笑いの逆襲というものがあって、得てしてそちらの方がすさまじいことを心しておくべきだろう。
らもさんはこのような「笑いの逆襲」の例として、「無い腕でラリアートかましてみせる身障者プロレスラー」や、「『いやあもう手も足も出ないよ』というギャグを放つホーキング青山大川興行の、両腕両足のきかない芸人)」などを挙げています。
ここまで強烈な例ではないにしても、あたしがこのへんを読んでちょこっと連想したのが、映画『プロデューサーズ』の、ゲイの演出家ロジャー・デ・ブリーの家のシーン。同性愛者のあたしがあのシーンで怒り出しもせずゲラゲラ笑える(映画館でも、家でDVD観ててもやっぱり笑い転げました)のは、ひょっとしたらあれが「ハンディのある側からの笑いの逆襲」として成立しているからなのかもしれません。あそこまで毒々しくゲイ(と、レズビアン)のステレオタイプを列挙して"Keep It Gay"と歌い踊ってみせるのって、結局は普段ステレオティピカルにしか見られていない同性愛者側からの一種の逆襲だと思うんです。だからこそあのシーンが、ある種の凄みをおびた「笑い」になっているんじゃないかという気がします。そんな「すさまじい」ものを見せつけられたら、人は尻尾を巻いて逃げるか、覚悟を決めて笑い転げるかのどちらかしかないよね。
なお、この本の中の、「差別」と「笑い」について一番共感した部分はこちら(pp116-117)。

絶望と救済。絶望の闇の中にただ一筋見える光の線が「笑い」だ。(引用者中略)生きるための唯一の手段が「笑い」なのだ。絶望から抜け出す通路が「笑い」なのだ。従って笑うことは生きることである。「笑い」は「差別」だと何度も書いたが、「差別」だから「笑い」が良ろしからぬものだと言ったことは一度もない。この世にニンゲンが一人もいなくなる日まで「差別」は存続し続ける。それを否定することは夢想者にしか出来ない(ジョン・レノンのような)。笑いが差別的構造を持つことと、笑うことが生きることであることとは、全く位相の違う問題だ。笑いはニンゲンに絶対に必要な存在だ。明記しておく。
評論以外の部分も大変におもしろく、買って損はない本でした。これから付属CD(中島らも出演のラジオ番組(未放送分)×2回分。アコギの弾き語り『尖ったエンピツ』『いいんだぜ』もノーカットで収録)を聞いてみるところです。