「家族」が自分で選べない不合理
久しぶりにこの本を読み返してて、「あーあ、ヘテロはいいなあ」とうらやましくなって落ち込んじゃったよ。いいなあヘテロは、「高度の選択性」を与えられてて。あたしらには「運命の呪縛」しかないってのにさー。
吉澤 たとえば「家族」という関係性を考えてみると、そこには、高度の選択性と運命の呪縛という一見反するような二つの要素があります。高度の選択性というのは、簡単に言えば、その関係性を自分が選べるということを意味します。
(「友愛の言説をめぐって」 - 『QUEER JAPAN Vol.4』. 勁草書房. p. 264.より)
同性愛者には「家族」*1を選択することが許されていません。一番好きな人、一番大切な人を「家族」にすることはできず*2、法的には死ぬまで原家族に縛り付けられます。
パートナーが事故や急病で意識不明になっても、同性愛者は主治医からムンテラ(症状や治療方針の説明)を受ける権利がありません。看護権もありません。だって「他人」だから。「家族」じゃないから。大災害があってパートナーと生き別れたとして、問い合わせた避難所や病院がパートナーの安否を教えてくれなくても、文句は言えません。だって「他人」に個人情報を漏らすことは法律違反だから。パートナーが急死すれば、彼または彼女の見たことも無い親戚たちが財産を根こそぎさらっていきます。何十年連れ添ってもこっちは「他人」で、どれだけ音信不通であっても彼ら/彼女らは「家族」だから。共同で作った貯金であっても、名義がパートナーのものなら終わり。遺言書があっても「騙して書かせたんだ」「訴訟を起こすぞ」と脅されたら終わり。裁判になれば、嫌でも周囲にセクシュアリティーが晒されてしまい、下手をすると財産どころか職すらも奪われてしまうからです。
あたしは同性愛者だから、いちばん大切な人とは生涯「他人」でいなければなりません。法律上で現在あたしにいちばん近い「家族」とされるのは、あたしを殴り罵り強姦しようとしたクソ男(父)と、それを黙って見ているのみならず幇助しようとした共依存女(母)です。そこから逃げ出すことはできません。一生。これが理不尽でなくて何なんだ、と思います。
「愛」も「絆」も「共同生活」も、結婚しなくたってじゅうぶん実現できます。「助け合い」も「パートナーとの互いの成長」も同じ。だから、そういう意味では「同性婚を認めろ」なんて全然思いません*3。でも、生死にかかわるぎりぎりの場面で誰がいちばん大切な人なのかを自分でまったく選べないのはつらいです。別にケッコンなんかしなくていいから、いちばん大切な人を自分で選べるようにしてほしい。好きでもない人を「これがお前の家族だ!」とお上に押し付けられるのは嫌だ、と思います。