百合という語の迷走について・続き

以下は、「仮説:「百合」という語の迷走は『黄薔薇革命』から始まった?」を読んでくれたセクマイ友達の意見。

薔薇族にっかつロマンポルノを知らなくても、どことなく、「女の子同士のキヨラカな関係を百合と呼ぶ」というイメージを持っている人は多かったと思う。「白百合学園」などの女子校のネーミングが、「女の子同士」、「カトリック」、「清楚」などのイメージと結びついたせいかもしれないし、百合の花そのものの純白のイメージが「汚れない乙女」を連想させやすかったのかもしれない。いずれにせよその根底にあるのは、「女の子には性欲はないはず」あるいは「女の子は欲情してはいけない/欲情してほしくない」という発想なのではないか。
なかなかに鋭い視点だと思いました。多少補足しておくと、「百合」という語の大元が「薔薇族」におけるネーミングだったことには変わりないと思うんですよ。それがマジョリティの間に広まっていくするうちに、「百合」という単語そのものの語感から、勝手に「清純」とか「純白」とかのイメージを付与されていったのかもしれないってことですね。さらにそこに、ヘテロが大好きな処女信仰や女性神話も加わって、「百合関係はプラトニックでなければならぬ」という思い込みの一丁あがりというわけ。これは確かに説得力あるわ。
もしもこの説が正しいとしたら、「百合」という語の迷走は『黄薔薇革命』以前から始まっていたことになりますね。地下で脈々と流れていた「女の子は欲情してはならない」&「百合とは清純なもの」というイメージが、「マリみて」と共に「ほらやっぱりこれが正しかった!」と噴出したという構造なのかもしれません。だとすると相当、根が深いなあ……。このへんのことは、もう少し考えがまとまったら、また追加記事を書くかもしれません。