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仏教用語としての「愛」
昨日から続く「トラックバックありがとうございますシリーズ」(と本日命名)です。話の流れとしては、「『愛』よりも『好意』が大切」→「日本人に『愛』は無理なんじゃないかという話」の続きに相当します。
仏教用語には、肯定的な「愛」もあったのだ!
まずこちらが、昨日トラックバックを送っていただいた記事。
眠る前に気になった話題にだけ珍しくトラバしてみる。みやきちさんの日記。「”愛”という語が輸入品」であることに関連して、仏教用語としての「愛」が出て来る。いま手元に仏教辞典がないのできちんとは確認出来ないのだけれど、そこには「愛」について二つの定義があったと思う(明日調べます)。一つにはみやきちさんの仰るように「渇愛」や「愛着」といった欲求から来るもので、これは煩悩直結なので勿論仏教では否定的だ。もう一つは宗教的価値観(具体例が示せずすみません)に対する「愛」でこちらは肯定的に使われる。うお、仏教の世界には、いい意味の「愛」もあったんですね!? やっぱり半端な知識でろくに調べずに何か書いてはいかん、と反省しつつ「えーとえーと」と一生懸命考えて、ようやく「にほんごであそぼ」で覚えた「和顔愛語」という語を思い出しました。確かに、この「愛」はどう考えても肯定的な意味ですよねえ。
そして検索してみたわたくし
困ったときの定番・Googleの神にお伺いをたててみたところ(本当はきちんと図書館等に行くべきなのですが)、このようなページがヒット。
- 仏教ちょっと教えて - 仏教の「愛」について(以下、引用文中の強調は引用者による)
愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。さらにこのページを読み進めてみると、仏教では、この渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。
仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問(引用者注:『無量寿経』中の「和顔軟語」という部分がなぜ「和顔愛語」に変わったのか、という疑問)も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。
- 初期仏教では、愛憎を捨てて離れることが重視された
- 初期大乗経典では、「愛」のつく語は否定されるべき執着としての意味で用いられている
- しかし仏典には、愛の深まったものが慈悲であるとして、「仁愛」「恩愛」「和顔愛語」など、「愛」が肯定的な意味で使われている例もある
……ということらしいです。やっぱり、仏教において「愛」は肯定的な意味でも使われ得る語だったんですね。
まとめ
というわけで、今回考えたり調べたりするきっかけを与えてくださったid:teajianさん、ありがとうございました!