仮説:「百合」という語の迷走は『黄薔薇革命』から始まった?
21世紀に生きる日本のレズビアンからしてみると、「百合」という語は、「ゲイに名づけられ、ポルノに利用され、オタクや同人者に奪い取られ、当事者無視でカスカスになるまで収奪された語」ですな。具体的には、
- 1970年代に「薔薇族」の伊藤文学氏によってレズビアンが「百合族」と名づけられ、
- 80年代のにっかつロマンポルノ「百合族」シリーズによって「百合=男性向けレズビアンポルノ」というイメージを植え付けられ、
- 最近になってオタクや同人屋(の一部)から「百合は清らかでプラトニックな世界だから、レズなんか関係ない!」と、当事者たるレズビアンが蹴り出されてしまった*1
……という流れですが、ひでーな、こうして見ると。
よくわからないのは、80年代にすっかりヘテロ向けレズポルノのイメージがついてしまった「百合」という語を「女の子同士のプラトニックな(=レズビアンですらない)関係を指す語」と思い込む人が出てきたきっかけはいったい何だったのかということ。以下、漠然と考えている仮説を記しておきます。
あたしが思っているのは、「マリみて」は知っていても「百合族」シリーズは知らない若い世代が、「『マリみて』こそ百合のスタンダード」と誤解したのが混乱の始まりなんじゃないかということです。具体的には、マリみての『黄薔薇革命』のあとがきの、作者によるこのくだりがきっかけになったんではないかと考えています(p214)。
ま【マリア様がみてる】インターネットの某ページに『マリア様がみてる』のことが記載されていて、「ソフトだけど完全に百合」というコメントが添えてあったのには笑ってしまった。最高の誉め言葉です、ありがとう。『マリア様がみてる』が発売されたのが1998年。その時点ではマリみての世界には「ソフトだけど」百合という形容がされていたんですね。つまりこの時代まではまだ世間に「百合と言えばレズポルノ」的なイメージの残滓があったため、マリみては「標準的な百合」ではなく、「ソフトな百合」でしかなかったのではないかと、あたしは思うわけです。
このあとがきが出るまでは、「百合」という語にまつわりつくエロイメージのせいで、「マリみて」世界に「百合」という語を冠するのをためらっていた人も多かったんじゃないかと思います。そういった人々が、『黄薔薇革命』以降は安心して「マリみて」を「百合」と呼ぶようになったんじゃないでしょうか。で、「マリみて」の百合作品としての評価が高まる中で、「百合」の語源も80年代からのエロイメージも元々知らない層の人たちが、「『マリみて』こそ『百合』のスタンダード」と勘違いしちゃったんじゃないですかね。そしてそこから「百合と言えば『マリみて』」→「『マリみて』と言えば清純」→「レズは百合じゃない、出て行け!」という流れで、レズビアン的なものを百合カテゴリから蹴り出そうとする動きが出てきたのではないかとあたしは勝手に勘繰っています。
もしこの想像が当たっているのなら、全ては誤解に始まっているわけなので、プラトニック至上主義の百合ヲタは海外から「少女愛」という語でも輸入(というか元々日本語なんだから、逆輸入なのかしら)してうまく棲み分けてくれればいいのになあ、と思います。いや、ガチな人としては今さらレズビアンに「百合族」と名乗らせろとかはまったく思わないんだけど、「百合」の名を振りかざして同性愛嫌悪を剥き出しにされるのは見ていてやっぱり複雑なものがあるのよ。
- 後日付記:「百合という語の迷走について・続き」(2006-06-14)
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ギャグシーンの面白さも健在なら、怖いシーンでくどくどと説明し過ぎないうまさも相変わらず。昔『ここはグリーン・ウッド』の中で作者本人が「やっぱりなすゆきへに化け物の出てこない話は描けないんだ」と冗談めかして書いてましたが、化け物の話を描かせたら天下一品ですねこの人。人が悪夢で見るような「理由のわからない恐怖」の描写が、本当にすごい。初音の謎めいた過去も少しずつ明らかになってきて、今後の展開から目が話せません。4巻がとても楽しみです。