自らすすんでトゥルーマン・ショーの主人公になってどうする

こないだTVでやってたのを久しぶりに見たんですが、映画『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)って実に1998年の作品なんですね。この作品、メディアや宗教や、誰にでもある神経症的な恐怖などモチーフに皮肉な笑いを叩きつけるコメディーなんですが、今見るとネット時代の「人間のコンテンツ化」の実態をも描き出していたんじゃないかという気がします。

「あれを見た」「これをした」「これ食った」「こう思った」等々、毎日毎日オンラインで逐一セルフ実況中継するっていうのは、自分による自分のトゥルーマン化ですわな。何か書いて発表するのは楽しい、読んでもらうのも楽しい。それはわかります。フォロワー数やらアクセス数やらRSS登録数やらが増えると嬉しい。それもわかります。でも、読み手がある一定の数を超えた時点で、あなたの意志がどうあろうと、あなたはただの消費の対象になる。人間ではなく、モノになる。

怖いですよこれは。最高でも1日数万アクセスしかいってない「みやきち日記」でも、その怖さの一端は味わえたと思います。だからこそ、『トゥルーマン・ショー』のラストシーンに、余計にぞくりとさせられたわけで。トゥルーマンは知らないうちに勝手に「生きるコンテンツ」にさせられていた(公民権まで剥奪されてね)んだからまだわかるけど、自ら進んであの立場に身を置くのって、どんなマゾヒストよ?

もちろん、読み手がどれだけ増えようと、書き手をただの人間として当たり前に扱ってくれる人というのは一定数存在します。でもそういう層っていうのは、別にネット以外で出会っても楽しくつきあえるタイプの人だと思うんですよね。なら、必死になって自分をコンテンツ化して発信し続ける意味って、どこにあるんでしょう。

その昔おもしろいブログ(や、サイトなど)を運営していた人たちがいつの間にか次から次へと沈黙しちゃった(または寡黙になっていった)のは、ひょっとしたらこういうところにも原因の一部があるのかもと思います。商売でもないのに自らすすんで己を切り売りするこたあねえやな。ネットはたしかにおもしろいけど、よく見りゃ狭いシーヘヴン島と変わらないよ。そんなわけで、ネットを使う上では、「消費する/される」のシステムに飲み込まれないための何らかの工夫はしておくに越したことはないんじゃないかな。いや、「自分は21世紀のトゥルーマン・バーバンクとして、ひたすら全方位から見られ、消費されまくって生きるのだ!」と決意してる人は別だけど。

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