『人間はガジェットではない』(ジャロン・ラニアー、井口耕二訳、早川書房)感想

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ジャロン ラニアー 井口耕二

早川書房 2010-12-16
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訳文は読みづらいものの、「ドライブバイ匿名性」の部分は面白かったです。

バーチャルリアリティーの父」ことジャロン・ラニアーによるWeb2.0批評本。後述しますが日本語訳がおそろしく読みづらく(ときどき米Amazonの『なか見!検索』で原文をチェックして、ようやく意味がわかったぐらい)、通読するのがつらい本でした。しかし、もともと読みたいと思っていた「ドライブバイ匿名性」についての部分は面白かったです。「はてなが今ひとつメジャーになりきれないのは、このドライブバイ匿名性に対していっそ無邪気とも言えるような設計を続けているせいじゃないだろうか」などと思いつつ読みました。

ドライブバイ匿名性について

ドライブバイ(drive-by)とは、「車で通りかかること」または「走行中の車からの銃撃」ぐらいの意味です。そんなわけで、「ドライブバイ匿名性」というのは、「まるで車から誰かを撃ってそのまま逃げるように、オンラインで悪質な書き込みをして、自分には何の損害もなく逃げ切ることを可能にする匿名性」というほどの意味になります。

ラニアーは、この「ドライブバイ匿名性」をサポートした設計が、トロール(ネット上で挑発的なコメントを書き込んで場を荒らす人)の出現をまねくのだと主張しています。以下、pp. 119 - 120から引用。


偽名をさっと用意し、ブログやユーチューブにコメントを投稿する人は性悪なことが多い。イーベイは売り手も買い手ももう少しレベルが高いが、あてにならなかったりだましにあったりと失望させられることもある。このようなデータを見てみると、オンラインに愚行をもたらしているのは匿名性そのものではなく、一過性の匿名であること、また、因果応報が成立していないことだとわかる。
(引用者中略)
スラッシュドット(テクノロジーニュースの人気サイト)にコメントする人々やウィキペディア編集合戦をする人々に比べると、セカンドライフ(バーチャルなオンライン世界)の参加者のほうが普通だ。いずれも匿名が許されているという意味では同じだが、セカンドライフの場合かなりの労力をつぎこまないと匿名のパーソナリティーが得られず、そのパーソナリティーに大きな価値がある点がことなるのだろう。

ドライブバイ匿名性がトロールを産む他の例として、ラニアーはWorld Wide Web以前のダイヤルアップ・ネットワークである「ユーズネット」(Usenet)を挙げています。このユーズネットは、ドライブバイ匿名性をサポートする設計になっていました。結果、「一部のユーザーは下劣なばか者に転じた」とのこと。当時のオンライン環境では、ユーザの多くが教育程度の高い大人(学者、企業人、軍人など)だったにもかかわらず、です。トロールの出現は、ユーザの質ではなく、サービスの設計によってもたらされるというわけ。

それで思ったんですが、最近ブログのコメント欄を閉じたり、認証性にしたり、あるいはブログそのものをやめてしまったりする人が多いのは、ブログのコメント欄というものがいまだに(基本的に)このドライブバイ匿名性を支援する設計だからじゃないでしょうか。もっと言うと、現時点でコメント欄を消すことすらできない「はてなブログ」(リリース時点では承認機能や書き込み権限設定機能すらなかった)や、今日とった捨てアカウントと長年使ったアカウントとでまったく価値が変わらない「はてなブックマーク」なんてのは、かなり積極的な「トロールさんいらっしゃい」設計だと言っていいんじゃないかしら。大丈夫か、はてな

ラニアーによると、ユーズネットがドライブバイ匿名性をサポートしていた理由については「当時、実装がもっとも簡単な設計だったからという意見があるが、それが本当か否か、私にはわからない」(p. 129)とのこと。ユーズネットが作られたのって、1979年ですよ*1。まだネスケはおろかモザイクもなかった頃ですよ。その時代にすでに「この設計ではトロールが場を荒らす」とわかったのに、21世紀になってまで「ドライブバイ匿名性の美学」(p. 129)を受け継いだ設計をしつづける必要はないんじゃないかなあ。それは性善説というより単なる怠慢であるように、あたしには思えます。通りすがりの車から銃で撃たれることを好む人って、そうはいませんからね。
あ、今すごくイヤなことを考えちゃったんですが、ひょっとして、「実装が簡単だから」という理由だけでいまだにこういう設計が多かったりするんでしょうか。いや、まさか、そんな。

訳文の読みづらさについて

この本の訳文は「翻訳」というより、高校の授業でやらされた「英文和訳」に近いです。文法的解釈の正しさはともかく、日本語としての可読性は低いと言わざるをえません。以下、いくつか例をあげます。


コンピューターがすごく見えるように人を時代遅れとする

第2章内の見出しのひとつ(p. 57)なんですが、パッと見て意味わかります、これ? 頭が悪いあたしは主語が何なのかわからず、混乱しました。最初、「コンピュータが」の部分が主部なのかと思い、


コンピューターが(S) makes(V) 人を(O) 時代遅れに(C) 人がすごく見えるようにするために(M)

みたいな構造のSVOCの直訳なのかと思ったのですが、これでもやっぱり意味が通じません。で、原文を見たら、こうなってました。


Making People Obsolete So That Computers Seem More Advanced

つまり、「コンピューターをより進んだものだと思わせるため、人間を時代遅れのものとすること」だったわけ。

ここまできてようやく、この見出し以下に書かれているテクストの意味がわかりました。これは、ネットは人間の脳よりレベルが上であるとか、コンピュータが進化していけば人間なんて過去の存在になるとか、そういうシリコンバレーで信奉されがちな考え方を批判した部分の見出しなんですよ。一事が万事で、日本語としての構文がとりにくいために、そのセクション全体が意味不明になってしまっている箇所が多かったです。

カタカナ語の使い方にも難があると思います。たとえば、国語辞典にも載っていれば学校の授業でも習う「ラッダイト」をいちいち「機械打ち壊し論者」と訳す一方で、「ノウアスフィア」なんていう見慣れない語はカタカナのまま使われているんです。いきなり、


第3章 ノウアスフィア=みんなの内に潜むトロール

だの、


サイバネティックス全体主義における空想の産物(インターネットでつながった人々の総体として形成されるグローバル脳のノウアスフィアなど)

だのと書かれて、即座になんのことかわかる人っている? 語学力のないあたしには無理でした。今調べてみたんだけど、カタカナの「ノウアスフィア」を、「635の専門辞書や国語辞典、百科事典から一度に検索する辞書サイト」であるWeblioでひいてもWikipediaしかひっかかりませんぜ。英単語として"noosphere"でひいても、Weblio(『新英和中辞典 第6版』や専門辞書が入ってるそうな)やgoo辞書(『プログレッシブ英和中辞典 第4版』)、Yahoo!辞書(『eプログレッシブ英和中辞典』)ではかすりさえしません。

ざっと調べた範囲では、この単語、英和だとリーダーズランダムハウスジーニアスには載ってるみたいですね。英英だとOEDやNOAD、Merriam-Websterには載っていますが、OALDには収録されていません。やはり、あんまり一般的な語ではないんじゃないですか。こういう単語こそ日本語にして、「人智圏」とか「人間の知的活動全体」とかなんとか訳しておけばよかったのに。

そうそう、上記の「ノウアスフィア=みんなの内に潜むトロール」って、原文だと"The Noosphere Is Just Another Name for Everyone's Inner Troll"なんですよ。素人考えですが、「人間の知的活動とは、内なるトロールの別名にすぎない」とでもした方がまだわかりやすかったんじゃないでしょうか。

以上のようなわけで、日本語で読むことはあまりおすすめしません。米AmazonKindle版が9.69ドルで買えるので、それ買って英語のまま読んだ方がわかりやすいです。Kindle(またはKindle for iPad)ならウェブスターの英英が入っていて、タップするだけでnoosphereの意味も一目瞭然ですから。