いささか話を一般化しすぎなのでは? - オーストラリアと日本の「幸せのものさし」の話

以下、「幸せのものさし」の種類が少ない日本 : 1min : earth in us.より引用。


「日本は、幸せのものさしの種類が少ない。」
男ならたくさん稼いで成功すること。
女ならお金持ちでイケメンでやさしい旦那さんをもらって子どもに恵まれること。
日本人の幸せは、大きく分けてその二つしかない。


 目からウロコでした。
たしかにオーストラリアを見回すと、そうでした。
いろんな幸せな人がいました。自給自足を楽しむのもアリ。男が子育てを楽しむのもアリ。ホームステイで世界中から子供招くのを生きがいにするのもアリ。昼から浜辺でビールを飲むのもアリ。会社を4時に終えて、そのあとサーフィンを楽しむのもアリ。バーベキューを生きがいにするのもアリ。
(引用者中略)
幸せのものさしを、みんながそれぞれ作って、尊重しあっている。

で、オーストラリアでそういう幸せを楽しめてるアボリジニはいったい何人いるのでしょうか。また、いわゆる「カレー・バッシング」でオーストラリア白人から暴力をふるわれている在豪インド人はどうでしょう。本当にオーストラリアの「みんな」が互いの「幸せのものさし」を尊重し合っているのなら、彼ら彼女らの受難は存在しないと思うのですが。よって、オーストラリアは幸せのものさしが多い、それに比べて日本は云々という論の立て方は、あまりにも雑なのではないかとあたしは思います。
そもそも話の大前提になっている「日本人の幸せは大きく分けて二つしかない」って部分も怪しいし。少なくとも非ヘテロな日本人女性であるわたくしは、旦那さんなんて頼まれたって要りませんよ。アボリジニやインド人がオーストラリアの「みんな」の中から排除されているのと同様、非ヘテロな日本人女性も「日本人」の枠には入れてもらえてないわけですよ、ここでは。「『自分の出会ったオーストラリア人は』こうだった、それに比べて『自分は』こうだ」というような限定つきの話ならまだわかるんですが、いささか話を一般化しすぎなのでは?