「寛容」なはずのセネガルのゲイ埋葬事情:(1)墓から掘り出され家族の家の前に捨てられる(2)道端に埋められ「不適当な埋葬」扱い

「セネガルでゲイ男性の死体が墓から掘り出され、家族の家の前に捨てられる - みやきち日記」の続報にあたるニュース。

今回のニュースによると、昨年5月に暴徒によって墓から掘り出されたゲイ男性Madieye DialloさんはHIVに感染していたとのこと。埋葬されて数時間後には暴徒がシャベルで墓を掘って死体を引きずり出し、つばをはきかけていたそうです。死体を墓から掘り起こすプロセスは携帯で動画に撮られ、その動画はDialloさんの住んでいた町で売られていたそうです。動画は携帯から携帯へと広まり、町中のゲイがパニックに陥ったとのこと。

また2008年5月には別の男性Serigne Mbayeさんが、ゲイだという噂を根拠に墓地への埋葬を拒否されています。Mbayeさんの家族は自力で道端に墓を掘るしかありませんでした。ところが、深さが十分でなかった墓はその後強風によって吹き飛ばされ、Mbayeさんの家族は「不適当な埋葬」をした罪で告発されたとのこと。

なおAssociated Pressによると、セネガルではゲイ男性の死体が墓から掘り出される事件が、この2年間だけで少なくとも4件あったとのことです。

ちなみにAssociated Pressの記事には「セネガルは同地域の他国と違い、寛容の手本であると考えられているので、この暴力はとくに衝撃的だ」という一文があります。この「寛容」に関して、Pinknews.co.ukのコメント欄で議論が起こっているのですが、その中でもとりわけこちらの文章が興味深かったです。


「寛容」なんて欲しくはない。私が欲しいのは平等と、そして、他のあらゆる人と同じだけの自由と敬意だ。「寛容」じゃないんだ。
i don't want to be 'tolerated'. i want to be equal, and have the same freedoms and respect as everyone else. not 'tolerated'.

目からウロコが落ちました。いつもいつも、「日本は衆道があった国だからゲイに寛容」なんて言葉を聞くたびにモヤモヤしていた理由が、はっきりとわかりました。こっちが求めているのは寛容じゃなくて、平等なのよ。一段高いところから「僕らは“心が広い”から、同性愛も“受け入れてあげる”よ。同性愛はよくないことだけど、“きびしく責めたりしないで”いてあげる*1」とエバられてるようじゃ、平等でもなんでもないじゃん!

ましてや、ゲイだと噂があるだけで埋葬拒否するとか、墓から引きずり出すとか、あまつさえそれを動画に撮って流通させるとかいうセネガルのいったいどこが「寛容」なんだと思います。必要なのは寛容じゃなくて平等。マジョリティ間で言ってるだけの「自称寛容」「他称寛容」なんて、何の役にも立ちません。とりあえず今後「日本はゲイに寛容」と言いたがる異性愛者に出くわしたら、「でも、ゲイに平等じゃないよね?」と切り返してみるつもりですよあたしゃ。

*1:大辞泉によると「寛容」とは「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま」です。