生物学者「動物の同性愛は『一種の適応』」

最近の生物学での研究では、動物の同性愛を「一種の適応」と解釈しているという話。以下、少し引用してみます。


フンバエは、相手の時間を奪い、その結果、繁殖のチャンスを奪うためだけに、オス同士で交尾すると考えられている。さらに、グデア科の魚の小さなオスはメスになりすまし、別のオスを引き付けながら、そのすきにメスと交尾する。また、若いミバエは、同性間の交尾を経験すると、異性間の交尾が上手になるようだ。
こういった例は、個々の個体の適応性を上げるものとして説明が可能だが、動物における同性愛にはさらに大きな意味合いを見ることも可能だ。例えばコアホウドリは一夫一婦制が普通だが、メスの数がオスより多い。その結果、カップルの3分の1近くがメス同士だ。メス同士のカップルは、メス1羽だけの場合より子育てがうまい。また、独り身のメスが、ほかの巣にいるつがいのオスを誘惑するといったことが減る。
この場合の同性愛は、コアホウドリのコミュニティー全体に大きな利益をもたらしている。さらに、社会性昆虫に見られる「真社会性」は、同性によるコミュニティと見ることもできる。こうした事柄から見た同性愛とは、個体を超えた「超個体」(superorganism)へのひとつの段階なのかもしれない。[超個体とは、多数の個体から形成され、まるで一つの個体であるかのように振る舞う生物の集団のこと]

面白いなー、これ。

動物の例がそのまま人間にあてはめられるとは限らないし、「自然界にもあるのだから同性愛を認めろ」みたいな論調にはあたしは反対の立場をとっています。そもそもあたしら同性愛者がいちいち「認めて」もらわなきゃならない理由がわからないし、「自然とは何か」の定義もなしに「自然=善」「不自然=ダメ」とか決めつける価値基準自体がうさんくさいと思うんですよ。あと、そんなに「自然」が好きなら毎日ハダカで暮らして、電車(人工物なんて不自然!)にも乗らず、米(外来植物だから、日本人が食うのは不自然!)も食わず、もちろんコンピュータ(不自然不自然!)も使わずに野山で生きてればいいじゃねーか、と思ったりもします。自分はどっぷり文明の恩恵にあずかりながら「自然」バンザイって、そりゃないでしょ。それって自分の好きなものに「自然」、嫌いなものに「不自然」のレッテルを貼ってるだけでしょ。

……とか言いつつ、それでもやっぱり上記の例みたいなのを見ると「へーっ」と思うんですけどね。「オスとメスがつがって子を作ること『のみ』が種の存続に貢献するのだ!」みたいな発想はやはり科学じゃなくて道徳、もっと言ってしまうと似非科学なんだな、と思います。

異性愛者から同性愛者に無遠慮に投げかけられる質問のひとつに、「どうして同性愛者になったの?」というのがあります。これからは「適応」だとでも答えておきましょうかね。(それはそれで、『そうか、異性にもてない環境に“適応”したのか!』みたいな斜め上の解釈しか返ってこなさそうではありますが)