「こんなんじゃ、俺の百合チンポは勃たねえ!」あるいは、 ジャンルの基準を主観で決め付けるのはもうやめようよという話

下のエントリで触れた、『電脳娼婦』(森奈津子、徳間書店)のあとがきが、とにかく面白いんですよ。以下、引用します。

それにしても、なぜ、SFファンは「これはSFではない」という批判をしたがるのでしょう。
すなわち、なぜ、その作品がSFであるか否かを自分のSF基準に照らし合わせて判定した結果を、「これはSFではないと思う」とか「この作品には私が考えるSFとしての要素がない」などと述べるのではなく、「これはSFではない」と断言したがるのでしょう。なぜ、このように安易に、おのれの主観を客観的事実であるかおのように語ってしまうのでしょう。
(引用者中略)SF以外のジャンルでは、「これは○○ではない」という批判はまったくもってポピュラーではありません。
たとえば、ある官能小説になんの興奮も覚えなかった読者が「これは官能小説ではない」と主張することは、まず、ないでしょう。実際には「こんなんじゃ、勃たねえよ!」あるいは「こんなんじゃ、濡れねえよ!」です。「自分は当該作品に興奮できない」という主観は主観として、正直に申告しているのです。
(引用者中略)また、そのような批判を受けた官能作家のほうも「おまえがインポなんだろう!」とか「おまえが不感症なんだ!」などと大人気ない反論をすることもなく、「さようでございますか」とあっさり引き下がるため(セックス・ファンタジーは人それぞれだということを、官能作家はいやと言うほど思い知らされています)、官能小説界においてはむなしい論争など起こりようがないのです。
(引用者中略)そこで私は今こそ、我々SFファンもSFを感じれば勃ち、あるいは濡れるSF性器――あるいはSFチンポ、SFマンコ――を持つことを、提言いたします。(引用者中略)そして、自分がSFではないと感じた作品には、こう言ってやるのです。
「こんなんじゃ、俺のSFチンポは勃たねえ!」
「こんなんじゃ、私のSFマンコは濡れねえ!」
森奈津子.(2004).『電脳娼婦』(pp250-252).徳間書店.)
一字一句同意です。自分もSFは好きなんですが、一部のSFファンの狭量さは苦手です。そして、SFだけじゃなく、こういう狭量さっていろんなジャンルにあると思うんですよ。たとえば百合とかね。
さすがに最近はもうだいぶおさまった感はありますが、少し前まで「これは百合ではない」「いや百合だ」みたいな不毛な論争がかなりあった気がします。「肉体関係まで行ってしまうのはレズであって百合ではない!」とかさ。「いや、セックスしても生々しくなければ百合とするべきだ!」とか、「違う、友情以上恋愛未満だけが百合だ!」「何を言う、友情だって百合だ!」とかさ。
でも、考えてみたら、これって結局「自分は当該作品に興奮できる/できない」ってことしか言ってないんですよね。そんな基準を元に「これは百合ではない」なんて批判をしたところで、何の意味もないのは明白です。いっそ百合好きもおのおの百合チンポと百合マンコを持ち、
「こんなんじゃ、俺の百合チンポは勃たねえ!」
「こんなんじゃ、私の百合マンコは濡れねえ!」
とでも言い放った方がはるかに筋が通っているというものです。そんな恥ずかしい単語口にできない、とおっしゃる方も多そうですが、己の主観こそジャンルの基準と思い込むのは、下品なシモネタ単語連発よりもっと恥ずかしいことなんじゃないでしょうか。というわけで、

  • 主観を根拠に「これは百合ではない」と決め付けるのではなく、「これは百合ではないと思う」「この作品には私が考える百合としての要素がない」ぐらいの表現にする
  • それが嫌なら、百合チンポと百合マンコにご登場願う
  • 両方嫌なら黙っている

というのが、ジャンル全体の平和のためにもいいんじゃないかな、と自戒もこめて(あたしもすぐ『これは○○ではない!』みたいに突っ走っちゃうところがあるもんなー)思っているところです。