「『そんな言い方誰もしない』と言い張るお子様たち」について、補遺(掲示板に書いたものをコピペ)

2007年1月24日のエントリ「『そんな言い方誰もしない』と言い張るお子様たち」について、掲示板の方でたくさんのご意見をいただきました。ありがとうございました。せっかくなので、掲示板上に自分が書いたことをいくつかまとめて、補遺として転載しておきます*1

「みんなそうだから正しい」という理屈のうさんくささ


投稿者:みやきち 投稿日: 1月26日(金)10時19分17秒
(引用者注:『みんな』を持ち出して人を説得しようとする大人に『みんなって現に俺は違う』といっても『お前の為にいってるんだ』と言い出すだけ、という話を受けて)
そうそう、それです! 「みんなって現に俺は違う」という明確な反証を無視するあたりが、「みんながそうだから正しい」論者の限界ですよね。そんなロジックで人を説得できると思ってるあたりがおめでたすぎます。そんな理屈を振り回す人には、なるべく近寄らないようにしたいものです。

今の子どもたちが即「みんなそうだから正しい」派なわけでもないこと


投稿者:みやきち 投稿日: 1月26日(金)10時19分17秒
(引用者注:『みんなそうだから』『昔からそうだから』料理する人=お母さん、と結論づける人たちについての話で)
こういうこと言う人って、「家事とは嫌なもので、女の人におしつけるもの。みんなそう思ってるはず」と思い込んでいるんでしょうね。でも、男だろうと女だろうと、料理が好きとか片付けが好きとかいう人は当然いるはずですから、やっぱりそれは変だと思います。プリンや煮つけが上手に作れるお父さんなんてとても素敵なのに、それを「お母さんがいないから料理してるんだ」みたいに言われたらムカつきますよねー。

でも、最近の子どもたちを見ていると、嬉しいことにこうした状況は少しずつ変わってきてるみたいですよ。
まず、「料理上手なお父さん」を自慢する子たちが増えてきています。小中学生ぐらいの子どもたちが、「うちのお父さんはお母さんより料理が上手で、誕生日のケーキは毎年お父さんが焼いてくれるんだよ」「うちのお父さんはオムライス作るのがうまいよ。土曜日のお昼はお父さんの担当だから、みんな楽しみにしてるの」などと得意げに教えてくれることがよくあります。そういう家の子は男の子も料理をするみたいで、「きのうはお兄ちゃんがチャーハンを作ってくれた」なんて嬉しそうに言っているときもありました。この子たちは「料理ができるお父さんやお兄ちゃん」が大好きで、そこには何の屈託もなさそうです。周りの子たちも、単純に「いいなあ」とうらやましがっていたりします。
それから、料理好きの男子学生というのもけっこういますよ。「先生、これ俺が焼いたケーキ」としょっちゅう手作りお菓子を持ってきてくれる男子高校生とかね(それがまた美味しいんですよ!)。
こういう子たちが大人になるころ、「みんなそうだから」「昔からそうだから」料理は女の人だけがするのだ、っていう風潮はだいぶ変わってくるんじゃないかなと思います。それがちょっと楽しみですね。

子どもの言い分を聞くこと、一緒に考えること


投稿者:みやきち 投稿日: 1月25日(木)13時52分35秒
(引用者注:子どもは子どもなりに考えた上で、『手が折れる』ではなぜいけないんだ! と疑問を感じているのでは、という話を受けて)
それはあると思います。子どもって体験の絶対量が少ない分、ある意味大人よりも理詰めで物事を考えようとしますからね。実際、「手を折れば自動的に骨も折れるのに、『骨を折る』は正解で『手を折る』はバツなのはおかしい!」のように、彼らなりに非常に筋が通ったことを言ってきたりしますよ。
そこで「屁理屈言うな」とか言ってしまったら大人の負けで、大人の側としては


「それじゃ、もしいろんな人が『苦労した』の意味で『俺は手を折った』『私は脚を』『あたしは頭蓋骨を』『ぼくは尾てい骨を』みたいにそれぞれ好き勝手なからだの部分を使って表現し出したら、会話はどうなるだろう? 朝学校行って、『おっはよー、きのうの宿題難しくて足首が折れたよー』とかさー」

と、どこまでも理屈につきあって一緒に考える義務があると思います。子どもの方でも、たくさん考えてほんとうに心の底から納得したものは忘れにくいですしね。

※実際、授業でもこのように一緒に考えながら教えることが多いです。納得してもらってなんぼのお仕事ですからね。慣用句の授業では、こうしたシミュレーションに加えて「辞書はどうやって作るのか」「日本語以外のことばでは慣用句はどうなっているのか」なんて話も混ぜると、納得してもらいやすいです。がっつり覚えさせるのは、その後ですね。

『今の』子どもたちの学力が壊滅的なのか


投稿者:みやきち 投稿日: 1月25日(木)10時38分49秒
いやー、「今の」というより、今も昔も実はこんなもんだと思いますよ。
「円の面積」や「小数のわり算」が誰かにどこかで教えてもらわなければわからないのと同じで、国語のいろいろな表現も、教わったことがなければなかなかわからないものだと思います。
よく保護者の方が「家で自分で子どもに勉強を教えようと思ったんですけど、『なんでこんなこともできないの?』とイライラして喧嘩になってしまって」とおっしゃるのは、たぶんそれが原因です。大人が「これぐらいできるはず」と思うことは、子どもにとってはむしろ「できなくて当然」なことの方が多いんですね。生活年齢の少なさって、やっぱりすごいハンデですよ。

ただし国語の場合は、本が好きな子や、ふだんから漢詩故事成語などに親しんでいる子は、学校で習う前に既に本からいろんな表現を学んでしまっていることも多いんですよね。だから同じ問題を一斉にやらせると、個人差がものすごく出てきます。さらりと全問正解して「え、みんな知らないの?」と驚く子も(少数ながら)いれば、間違えても単純に「そっか、こういう言い方するんだー」と受け止める子もおり、また、日記で書いたように「そんな言い方誰も(略)」と抗議する一派もいたりして、面白いです。

実は、この「そんな言い方誰も(略)」派のコドモというのは一種の負けず嫌いなんであって、それ自体は決して悪いことではないと思います。負けず嫌いなところにコドモらしい世界の狭さが加わって変な方向に不満が噴出しているだけで、うまく安心させて誘導してやれば、視野を広げてメキメキ伸びていきますよ。
問題なのは、大人になってもまだ「一人、二人、みんな」方式で自分の見聞の狭さを否認し続けることですね。そういう風になってはいかん、と自戒をこめてあのエントリを書いたのでした。

慣用句を勉強するための動機づけをどうするか


投稿者:みやきち 投稿日: 1月25日(木)10時38分49秒
やっぱり、「豊かな言語能力は、自分の一生を豊かにする」と気づかせるのがいちばんいい動機づけでしょうね。
自分の気持ちを人に伝えるのに、ひとつの表現しか思いつかない人と、たくさんの表現の中から「今、この人に伝えるにはこれがベスト」と選んで使い分けられる人とでは、生活の質がまるで変わってくると思います。これは、服にたとえて説明すると早いです。

「ただ生きていくだけなら一生ジャージしか着なくたって困らないけど、そういう人ってあんまりいないでしょう。いろいろな服を買っておいて、『デートのときはかわいい服』とか、『お葬式のときは地味な服』とか、いろんな服を状況によって使い分けるじゃん。そうやって相手や周囲に気持ちを伝えようとするんだよね。
ことばだってそれと同じで、なるべくいろんな種類を用意して、その場にいちばん合ったものをさっと選べるようにしといた方が、思っていることをわかってもらいやすくなるんだよ。ことばのタンスの中がジャージ一着しかないっていうのはとても不便だから、ちゃんと一張羅とか戦闘服とかいろいろ集めておきなさいね」
みたいに。
他にも食べ物にたとえたり大工道具にたとえたり、いろいろ苦労しております。あたし自身も、もっともっとタンスの中身を増やさなければいけませんね。

謝辞

たくさん考えるきっかけを作ってくださったビューワー様がた、ありがとうございました!

*1:転載にあたり、若干の加筆訂正を行っています。