『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』(千野帽子、河出書房新社)感想

1月5日の日記で引用した「文藝ガーリッシュ」の、第一期連載を集めた単行本です。いやあ、面白いわコレ! 文化系小娘(フィエット)のための素敵なブックガイドとして使えるのはもちろん、貴重な「エス」(または今風に言うなら「百合」)小説の紹介本としても、また女子文化やオタク文化の「自意識」を読み解く評論としても機能するたのしい本です。以下、後者2点についてちょっと述べてみます。

1. エス小説について。

この本の第9章「『トモダチ以上』な彼女とわたし。」が、まるまるエス小説の紹介なんですよ。千野氏の紹介文が、またそそるんだわ。まずは、川端康成『乙女の港』について見てみましょう。


横浜のカトリック系女学校の新入生、<小柄で、お人形のやうに可愛い>十三歳の三千子は、入学して間もなく、五年(最上級生)の洋子と四年の勝子から同時に熱烈な手紙を受取り、びっくりする。三千子は<きれいな方は、みんなお姉さまにほしい>と思うのだが、エスというのは一対一で、<相手の靴下のインチから、お辧當の中身、日曜日の行動まで、すつかり知つてゐる>関係であるらしく、三千子は当惑する。
千野帽子.(2006).「川端康成『乙女の港』」.『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』(p150).河出書房新社
思わず「それ何てライトノベル?」と聞いてしまいそうになりますが、こういうのが「エス」。してみると、現代の百合ブームなんてのは、べつだん新奇なものでも何でもなかったわけですね。しかしノーベル賞作家による「エス」小説だなんて、えらく贅沢な話です。読んでみたいわー。
次。幸田文『草の花』については、こうです。

父親がいないのに裕福な家庭の子であり、母もまた美しい人である正枝さんには、やっかみもあっていろんな噂が囁かれています。爵位ある人の隠し子だとか、母はどこぞの重役の思われものであるとか、正枝さんは三人も四人もの恋人を持つ<すてきなヴァンパイヤ>であるとか。その正枝さんも、担任の先生と四年の太田さんとが怪しいと文につげ、Sということばを教えるのです。
千野帽子.(2006).「幸田文『草の花』」.『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』(p155).河出書房新社.)
<すてきなヴァンパイヤ>て! ちなみにこれはノンフィクションで、舞台は麹町のミッションスクールです。だから主人公の名前が「文」なんですね。Sということばを知った文がその後同性からのラブレターに心揺れるところの描写なんかも、面白いです。
第9章で紹介されているエス作品をリストにすると、以下のようになります。古い作品だから手に入りにくいものが多いかと思いきや、今確認したら全部Amazonにありました。しかもマーケットプレイスで「4円」とか「1円」なんてのもぞろぞろ。おそるべし、Amazon

2. オリーブ少女とオタクの自意識について。

2-a. オリーブ少女について。

まず、オリーブ少女について。文化の価値は大人から教えてもらうものではなく、よいものは自分の責任と能力で――または、自分の好き嫌いで――選びとるものだと少女たちに示して見せた雑誌《Olive》についての、この考察にあたしは唸りました。


誤解を恐れずに言うなら、雑誌の軸が「男子に承認してもらう」ことからズレてしまった。コペルニクス的展開とはこのことで、この雑誌を読んだ女子はつぎつぎと「オリーブ少女」と呼ばれる地動説支持派になったのでした。もちろん「男子に承認してもらう」ことにたいした意味はないのだと、きっとむかしから勘づいていたには違いなくて、ただそれをはっきり打出して商業的に成功した雑誌が、たまたま《Olive》だったのかもしれません。
千野帽子.(2006).「文學少女の手帖1 尾崎翠」.『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』(p27).河出書房新社.)
男性たちが今頃になって自分の中の承認欲求と苦闘し始めた(ように見える)のに対し、オリーブ少女たちは1980年代にもうコペルニクス的展開を迎えていたというわけです。別にオリーブ少女でなくたって、この「女子文化が提起してきた自意識の問題」(p6)と100パーセント無縁でいられる女性は少ないんじゃないかという気がします。昨今ネットでよく見る、男性たちの「異性に承認されたい」という主張に接するたびになんとも言えぬ複雑な気持ちになっていた理由が、これでよくわかりました。もちろん、いまだ承認欲求でがんじがらめになっている女性もいれば、「異性に承認されることにたいした意味はない」と気づいている男性だっていますから、一概に「男性は全部こう、女性は全部こう」とステレオタイプ化するわけにはいきませんけれど。

2-b. オタクについて、あるいはガーリッシュな価値観について。

「博覧強記の『精神の貴族』」(p61)たろうとするオタクが結局旧態依然とした教養主義から逃れられないことを指摘したこの部分、ヲタである自分には耳が痛かったです。


ここにあるのは、特定ジャンル内の情報を網羅し、その量をもって教養となすという発想です。守備範囲を先に決めておき、そのなかに位置するアイテムをひとつひとつ、すべてチェックしていくことが理想とされます。
既存の秩序に反抗するためにすら、秩序だった教養を積上げていくことをやめられない。そしてその体系の根拠やイデアをなるべく疑わないようにする。疑ったが最後、自分の輪郭が壊れてしまう危険があるから。
千野帽子.(2006).「文學少女の手帖3 武田百合子」.『文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。』(p61).河出書房新社.)

この引用文の前後の文脈を箇条書きでサマライズすると、こう。

  • かつて旧制高校のエリートたちが支えていた近代的「教養」主義は、「専門家や権威に従っていれば恥をかくことがない」という権威的なものであった。
  • 近代的「教養」は、団塊の世代による学園紛争とともに崩壊する。
  • 「旧・教養」の崩壊後、上の世代に反抗したい若者は「純文学やクラシック音楽のような抑圧的正統文化に反抗する俺たち」(p49)というアウトロー意識と「対抗文化の教養・知識をたっぷり身につけている俺たち」(p49)というエリート意識から、結局は体系立った「新・教養」を教条主義的に積上げることになった。

つまり、「反抗する俺たち」を気取りつつ、結局上の世代と同じように「教養」を体系的に積上げて得意になっていたのが「オタク」(または、やや古い時代のオタク)なわけですね。ああ耳が痛え。

けれど「旧・教養」の崩壊後、みんながみんな「教養」の代償を求めたわけではないと千野氏は述べています(pp49-50)。その例として氏が挙げるのが、<文学>や<芝居>と<タルト>や<グラッス(アイスクリイム)>を並列で扱ってみせた森茉莉のエッセイ(p50)です。ここにおいて、文学や芝居はタルトやグラッスと等価か、あるいはその背景としてしか存在しえていません。嗜好を「教養」化するのがオタクなら、こちらは嗜好を「ライフスタイル」化して見せているわけで、これは前述の「オリーブ少女」の価値観、つまり「よいものは人に教えてもらうのではなく、自分の好き嫌いで選びとる」という考え方に通じるものがあるのではないでしょうか。「オタクは死んだ」と言われるこの時代を生き延びる有効なツールとなるのは、案外こうしたガーリッシュな発想なのかもしれない、と思いました。