カバ方式の合理性

動物に愛はあるか〈1〉死を悼むゾウ、盲目の仲間を導くネズミ動物に愛はあるか〈1〉死を悼むゾウ、盲目の仲間を導くネズミ
モーリス バートン Maurice Burton 垂水 雄二

早川書房 2006-06
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2巻も含めて読了。すこし古い研究からの引用が多いけれど、面白いノンフィクションでした。特に印象に残ったところをいくつか抜き出してメモしておきます。まず、カバの習性について(p54)。
ベルギーの動物学者R・フェルフイエンは、熱帯アフリカでカバの習性を研究した人であるが、彼は、雌と子どものカバが川の中央部を占拠するのに対して、それぞれなわばりをもつ雄は川の周辺部を占めることを発見した。雌は交尾したくなると、自分が選んだ雄のなわばりへはいりこんでゆく。ふだん雄は雌の勢力圏に立ち入らないようにしているが、うっかり気づかずに雌のなわばりに踏み込んでしまった場合には、雄はその大きな図体を水に沈めなければならない。もし雄がこの不文律を守らなかったりすると、まずまちがいなく残りの雌たちから攻撃されることになる。

著者モーリス・バートンは、この「不文律」には生物学的な理由がある、としています。カバの雄は体が大きく重いので、雌や幼獣を攻撃しないようにこのようなルールが発達したのだ、というのがバートンの考えです。
このような例は、クーズー(アンテロープの一種)にも見られるそうです(p56)。

雌に対する雄の敬意は、雌どうしがすみやかに結束する能力によって雌の側から強いるものである。たとえば、あるとき、フィールド内にたまたま八頭の雌がいた。あとから一頭の雄がそのフィールドにはいってきた。この雄はひたすらみずからの遺伝子の存続に向かってのみ駆り立てられているように見えた。雌たちは発情しておらず、あっというまに八頭全部が激しい攻撃を雄に加えたので、雄はおとなしくすることを余儀なくされたのであった。

そして、これがマントヒヒだと、もっとシビアなことに(pp71-72)。

パトリシア・スタンプは、一九七六年というつい最近に、エチオピアの半砂漠地帯にすむマントヒヒのあいだでは、その生息環境の要請するところによって、下位の雄は生活しやすく庇護された群れの社会から追放され、多くのものが流浪のうちに死ぬ、と書いている。食物が非常に乏しいので、生物学的な倫理は、種の存続にもっとも必要なものたち――雌と、いっしょにいる子どもたち――を保護することによって資源を節約するという形をとる。一頭の屈強な(優位の)雄だけがハレムの雌たち全員を守り、受精させることができるのである。
すげえな。下位の雄はセックスさせてもらえないどころか、追放されて死ぬのか!
バートンは他にもさまざまな生物の例を挙げていますが、それはここでは割愛。ともかく、動物の世界では、「雄が一方的にやりたがり、雌はそれを受け入れるのみ」とか「どんな雄にも平等に交尾の機会を」とかいうのはあんまり合理的ではないのですね。すると、人間の雄の一部が、「欲望を感じるのは男だけで、女に性欲はない」なんて珍説を本気で信じていたり、「一部のいい男だけがセックスの機会に恵まれるのはおかしい」と騒いだりするのって、一体何なんでしょう。要するに、人間は野生動物よりもサバイバルのリスクが少ないがゆえに、性行動も変わってきてるってことなんでしょうか。でも雄はともかく人間の雌の方は、今でもけっこうクーズーみたいに結束して、やりたいだけの雄に「何よアンタ!」と肘鉄をくらわせたりしたりしてると思うんだけどな。よくわかんないな。

補足

レズビアンサイトで上記のようなエントリを書くと、「『自然の摂理』から『逸脱』したレズのくせに偉そうに!」と血圧上がっちゃう方が出てくるかもしれないので、念のために補足を。さまざまな野生動物にも同性愛行動は観察されており、「性交渉は子づくりのためだけにある」というのは人間がつくり出したおとぎばなしにすぎません。詳しくは以下のリンク先をどうぞ。