「書かなかったこと」にも、その人らしさは現れる(『教えることの復権』感想)
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この単元はまず、日本経済新聞の連載「私の履歴書」の紹介から始まります。そして「履歴書」「自叙伝」「半生記」などのことばのかんたんな説明の後で、「では自分の履歴書、つまりこれまでの自分について語る文章をまとめてみよう」ということになります。
ここで、構成案のメモを取りながら、中学生は大いに悩むんですよ。自分について書くのだから、ネタはいくらでもあるはずなのに、思いついたことを全部書くわけにはいかない。自分にとって大事なことでも、人には触れ回りたくないこともある。ユーモラスな感じは出したいけれど、それにはどんなエピソードを書けばいいのかわからない。得意なことを書いたら、鼻にかけていると思われるのではないか。親を嫌うときの気持ちは、親が可哀想でとても書けないから、表面的に書いておこうか……。
そして一時間の授業の終わりに、はま先生がこんなことを言うんですね(p51)。(強調は引用者による)
苅谷氏は、その時の自分の心境を、次のように書いています(pp51-52)。
「はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、書きたかったら書いてみればいいでしょうが、書かなくてもかまいません。構成を考えたメモだけは、しっかり学習記録に入れておきなさい。さて。どうでしたか、『私の履歴書』を書こうとするときに、できごとを一から十まですべて、あったとおりに、そのままに書くわけではなさそうでしょう。書いてある内容そのものが、その人をすっかり表現しているわけでない。選んだことを選んだ内容で書く、実際にあったことでも、書かないこともある。そこにこそ、その人らしさが出てくるんじゃありませんか……」
学校の国語の授業というと、「書かれたこと」だけを死体解剖のようにつつき回して終わり、ということが多いように思います。でも、はま先生の授業は、「書かれなかったこと」にもしっかりと目を向けて、「迷い迷い、選びとりながら捨てながら」(p56)表現することこそが創造の本質だと生徒に悟らせてくれています。そこが素晴らしいし、あたしも中学生のときにこの授業が受けたかったよ、と心底思いました。
あ、そうか、文章というのは、たった今まで私がしていたように、迷いや意図や思惑や思いやりや、そういう過程があって、その結果として選択されて表現されたものなのだ。はじめから唯一これしかない、という姿があったわけではなくて、迷った末に選び取られた結果だけが、見える形で残っているのだ。選ぶこと自体が大きな創造で、そこにこそその人らしさがある。そんな目で周りを眺めたことがなかった私は、文字通り目からうろこが落ちたように思った。とても興奮した。ひょっとしたら音楽だって、美術だって、そうか日常のことばのやりとりだって、みんなそうやって表現されたものなのか。このときを境目として、世の中を見る目が変わりそうな予感がした。