「鏡の法則」がNGで「量子もつれ」がOKな理由 - 「鏡の法則」について(3)


鏡の法則」を批判するエントリで、「原因と結果の関係がおかしい」というタイプのものがあります。主婦A子の大切な息子がいじめられているという「結果」は、A子が大切にするべき人を責めていることに「原因」があるのだ、と言うコンサルB氏。これについて、どう関係するのか説明がなされていない、とか、関係の全くないものをあるように言い含めている、などという批判が展開される。
しかし思うのですが、そういう人たちは量子暗号通信が実用化されても使わないのかな? 「量子もつれ状態にある光子どうしは原因と結果の関係がおかしい」とか言って。いやそんなことはない使います、と言うなら、「鏡の法則」がNGで「量子もつれ」がOKな理由はどこにあるんだろう?
あたしは量子暗号通信は使うかもしれないけれど、自分の生き方の指標として「鏡の法則」を取り入れることは決してありません。あたしはこの法則に納得していないし、「いかに生きるべきか」という問題には、実利的なメリットよりも「自分の頭で考えて納得したかどうか」が大きく関わってくるからです。このへんのことを説明するのに良さげな文章を見つけたので、引用しておきます。

かりに、「いかに生きるべきか」という問題に大哲学者が答えたとしよう。そして、その答えにすべての哲学者が賛成したとしよう。それでも、無反省にその答えの通りに生きようとする人がいるだろうか。自分で納得しない限り、哲学者の意見に従う人はいないはずだ。「人生にはどんな意味があるか」「自分とは何か」といった問題についても同じである。それを研究するのは他人にまかせて、自分は出てきた結論だけを鵜呑みにすればいいと考える人は、ほとんどいないと思う。物理学のような学問の場合なら、専門家の言うことを鵜呑みにすればすむ。だが哲学は、他人まかせにはできないものなのだ。そして、それは自分で考えて納得するということが哲学の生命だからである。
鏡の法則」はまさしく「いかに生きるべきか」という問いに対する一つの答えです。そして、「いかに生きるべきか」というのは、他人から提示された目先のメリットだけで無思考に飛びつくにはあまりに重いテーマです。大きなつづら(参考)に大喜びで飛びつく人ばかりではないってことです。
ですから、この法則に賛同する人も、その人なりによく考えて納得した上でそうしているのだと思います。そして、あたしのように賛同しない人だって、自分の頭で考えたあげく「納得しない」という結論を選んでいるわけです。前者が後者の鼻先にニンジンをちらつかせて「さあ、おれの/私のように納得しろ」と説得しても、それは多分無駄です。「納得する」というのは、そういうものではないのです。

「納得する」ということは、他人に代わってもらうことはできない。この点では風呂に入ったり、音楽を聞くのに似ている。「今日、わたしは風呂に入れないから、代わりに入ってくれ」と言ったり、「音楽をここまで聞いたから、あとは代わりに聞いておいてくれ」と言うことはできない。哲学で納得する場合も同じで、自分で考えるしかないのである。
そもそも、自分が納得していないのに、「便利だから」とか、「誰か偉い人が正しいと言ったから」というだけの理由でなんらかの生き方を無反省に選択できるものなら、あたしゃこんなに損なレズビアン人生なんか送らずに、とっくにヘテロになってますよ。「いかに生きるか」というのは、「通信手段に何を選ぶか」なんてことよりずっとずっと重い問題であり、自分の頭で考えるプロセスをすっ飛ばして結論だけを鵜呑みにするわけにはいかないものなんです。

まとめ

「いかに生きるべきか」という大問題は、各人が自分で考えて納得するしかないため、他の問題に比べて目先のメリットに左右されにくい。少なくとも自分にとっては、「鏡の法則」がNGで「量子もつれ」がOKな理由は、そういうことだと思います。

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