他人の不幸はアンタのズリネタですか? - 中学生日記「誰にも言えない」放映前の反応について

※以下、性暴力に関係する内容です。フラッシュバックを起こしそうな方はご注意ください。
中学生男子が先輩の臨時コーチから性暴力にあうというエピソード。今夜7時放映なんだけど、ネットであちこちを見る限り、放映前からこのエピソードにたいして「やおい」とか「腐女子」とかいうレッテルを貼って興奮している人がけっこういるのに心底うんざりしました。あと「やばい」とか「NHKは勇気がある」とか言ってる人も、呑気すぎてなんだかなあ。実はそうやって問題に触れることすらタブーだと思い込む態度が、いたるところで性虐待被害者を苦しめているんですが、そういうことには考えが至らないんですね皆さん。

男の子への性暴力は偏見にさらされている

男の子への性暴力は、女の子への性暴力よりもさらに偏見の目で見られがちです。「勃起した方が悪い」とかね。「気持ちよかったんならいいじゃん」とかね。あげくの果ては、こうやって呑気な第三者のオナニーネタ(または、精神的オナニーネタ)として好き勝手に消費されたりね。冗談じゃないよまったく。

快感は性虐待を正当化しない

まず、被害者が虐待されている間に性的な快感を感じてしまうことは、性虐待を正当化しません。以下、『リンダの祈り - 性虐待というトラウマからあなたを救うために』(リンダ・ハリディ=サムナー、集英社)より引用(pp203-204)。


子どもは虐待されているあいだに、快感を得ることがある。このことをよく理解してほしい。
快感を得た被害者は治癒するまでに、長い時間がかかる。深い罪悪感を覚え、自分は行為を率先して行ったのではないか、楽しんでしまったのではないかと悩む。十分な知識のある大人やティーンエージャーなら、子どもを性的に刺激することは容易だ。心の中では怖くて悲鳴を上げているにもかかわらず、身体は反応してしまうのだ。子どもは虐待を受けている最中に、一瞬でも快感があると、とても戸惑う。
しかし、カナダ*1の自己防衛プログラムや性犯罪防止プログラムには、快感について説明がなされていないことが多い。”子どもが性的に触られている”間に起きる、困惑、怒り、悲しみなどの感情についてはよく説明するが、子どもが感じることもある”快感”については触れられていない。
私は子どもたちによくこう言う。「心は恐怖でいっぱいでも、身体は反応してしまうものなの。あなたがその行為に参加したことを示すものではないわ。まったく責任はないのよ」と。視聴覚障害者のための性虐待予防ビデオ「秘密を分かちあう」のコンサルタントをしていたとき、シナリオライターにこの話をすると、彼はとてもわかりやすい言葉に言い直してくれた。「それは鳥肌のようなもので、自分で止めようとしても自然に起きてしまうことなんだ」と。
「鳥肌のようなもの」というのはまさに本質をついていると思います。男の子の性虐待について、「勃起したなら/射精したなら、本人も楽しんでたんだろう」などと考えるのは、頭から氷水をぶっかけられて鳥肌が立ってしまった人に「自分から鳥肌を立てるなんて、氷水をかけられることを楽しんでいたんだろう」と言うのと同じぐらいおかしなことです。フィクションの世界では「こんなにしやがって、お前も欲しいんだろう」みたいな陳腐な台詞がまかり通っていますが、「こんなに」なってようと「そんなに」(どんなだ?)なってようと、本人に嫌だという気持ちがあるのなら、それは暴力でしかありません。

男性への性虐待とダブルスタンダード

男性への性虐待が、女性への性虐待に比べて軽視されがちなことについては、同書のこのへんの記述(pp86-87)が参考になるかと。


社会はいまだに被害者は女性で、加害者は男性であると思う傾向にある。そのため、男性は被害を受けてもなかなか打ち明けられず、届けでる件数も少ない。なぜなら、今でも社会の中にダブルスタンダード(二重構造)が存在するからだ。
たとえば、二八歳の女性が近所に住む一二歳の男の子を性虐待したとする。この子が父親に打ち明けたとしても、父親は息子の背中をたたいて「年上の女性に教えてもらった。運がよかった。おめでとう。おまえも男だ」などと祝いの言葉をかけるだろう。友だちに話そうものなら、くわしく教えてほしいといわれる。カナダでは、「女性によって”男”にしてもらった」という言い方をよくする。虐待ではなく”誘惑”と呼ばれる。
しかし、実は性虐待を受けると、女性よりも男性のほうがより無力感を覚える。なぜなら、このような経験を、”楽しむべきだった”といわれるからだ。嫌だったなどと言おうものなら、笑われるかばかにされる。加害者が女性であればなおさらそうだ。

男の子が同性に虐待されることはよくあるが、そのような被害にあうと、被害者は自分のセクシュアリティーに自信を失う。まわりの人たちに男性から虐待された事実を知られ、自分が同性愛者と間違われることをとても恐れる。それと同時に自分の”男性性”を疑い、なぜ加害者を引き寄せてしまったのか自問しはじめる。仲間にその事実を知られ、ばかにされるのではないかと心配し、警察への通報を躊躇する。

個人的な経験から思うこと

あたし自身が性虐待の被害者なので(父親にレイプされかけました*2。最後までやられなかったのは、ただ運がよかったからにすぎません)、こういうのはまったく他人事とは思えません。あたしは女性で、女性への性虐待なんて実によくある話で、しかも当時既に小さな子どもでもなかったので、男の子の被害者に比べればよっぽど周囲に打ち明けやすい状態にあったと思います。それでも母親に打ち明けるまでにはものすごい時間とエネルギーを要したし、打ち明けたら打ち明けたで、絵に描いたような否認に遭い*3、何の解決にもなりませんでした。自分の経験から考えても、男の子の性虐待被害者は、相当苦しいところにいると思うんですよ。それを能天気にただのオカズ的に消費して興奮できる人の神経がわかりません。というわけでなんか番組自体を見ることまで嫌になってきましたよ。どうしよう。
(後日付記:結局、録画してちゃんと見ました。感想はこちら→わりとしっかりしたつくりでした - 中学生日記「誰にも言えない」(前編)感想感想2

*1:リンダ・ハリディ=サムナーはカナダの性虐待問題の検察顧問です。

*2:いちいち書くのもアホらしいけど、念のため書いておきます。あたしはこの一件のせいでレズビアンに「なった」わけじゃありませんよ。それ以前から女の子と楽しくつきあってましたし。

*3:母は「気のせいじゃないの?」とか、「お父さんと二人きりにならなければ大丈夫でしょう?」とか言って、何も問題は起こっていないというふりをし続けました。そして、具体的にあたしと父を二人きりにしないような配慮は、一切しようとしませんでした。娘を生け贄に差し出しておけば、自分が夫とヤらなくて済むとでも思ったのでしょうかね。