さらば川原泉(その1):なぜ川原作品はあたしというセクシュアルマイノリティにとって読みやすかった(過去形)のか

はじめに

以下の文章は、2006年7月19日に書いた『レナード現象には理由がある』(川原泉、白泉社ジェッツコミックス)感想 - みやきち日記のいわば続きとして書いたものです。内容を簡単に要約すると、

  • 川原泉はもともと、ベタな恋愛漫画からボール1個外した作風が読みやすくて愛読していた。
  • が、近年に至ってぎくしゃくした構成の話が増えてきた上、もとから散見されたゲイへの偏見が『レナード現象には理由がある』で大爆発。
  • 残念だけどもう読みません。

となります。
なお、『レナード現象には理由がある』のホモフォビア表象をめぐるいろいろは、以下を読むとわかりやすいかと思います。

川原泉の読みやすさ:照れのある恋愛描写と、少女漫画的でないモチーフ

なぜ川原泉の作品はかつてあたしにとって読みやすかった(過去形)のか。それは、内容の面白さはもちろん、

  1. 照れのある恋愛描写が秀逸だった
  2. 少女漫画的でないモチーフが多用されていた

という2点が大きかったと思います。

照れのある恋愛描写について

ありがちな男女の恋愛道をギラギラと突っ走らない作風だったから、「別に男女の恋愛だけが世の中の全てじゃないじゃん」と思っているセクシュアルマイノリティな自分*1にとってはとてもありがたい作家さんでした。


「……だいたい世の中ってのは独り者には冷たいんですよね」
「そーそー/石蹴りゃ当たったのが恋人同士っつー時代だもん…皆様エネルギッシュで困るわ」
「体力はともかく…あの強靭な精神力にはついていけないねえ」
「あたしに言わせりゃ彼らの方が異常よ/大恋愛できる人って物凄くタフよきっと」
川原泉「真実のツベルクリン反応」(白泉社文庫『フロイト1/2』)より)
キャラクタにこのような会話をさせてしまうことでもわかる通り、川原泉は男女の恋愛をベタに賛美しようとはしない少女漫画家です。川原氏自身も、雑誌「ダ・ヴィンチ」(2006年8月号)のインタビュー「あなたは『笑う大天使を知っていますか』」の中で、次のように語っています(p221)。

最初のラフのときって、ちょっとまいあがっていて、つい情緒に走っちゃうんです。すごいロマンチックな話とか描いちゃって、あらためて読み返したとき、こんなの誰が描いたの! バカじゃないの!?なんて(笑)。夜書いた手紙を、朝見ると恥ずかしいことってあるでしょう。あれと同じです
この照れのある感性ゆえに、川原氏の作品はベタベタな男女恋愛物のステロタイプに陥らずに済んでいて、そこがあたしのようなセクシュアルマイノリティにはとてもほっとできるポイントだったのでした。

少女漫画的でないモチーフについて

昭和の時代の川原泉は、「一見まったく少女漫画的でないものを話のモチーフに使うことで、ベタな恋愛漫画から球1個(もっとか?)外す」というユニークな作風を持っていました。以下、川原泉が用いた非少女漫画的なモチーフの代表的なものをリストアップしてみます。

とても少女漫画のモチーフとは思えないこれらの要素は、それぞれの物語の過剰なロマンティック化を防ぐ装置としてたいへんうまく作用していました。そのため、ひねりのないヘテヘテ恋愛至上主義にうんざりしていたあたしにとって、昭和の時代の川原作品はとても読みやすく、かつ好感の持てるものだったのでした。
「さらば川原泉(その2): なぜ川原作品はあたしというセクシュアルマイノリティを悲しませているのか」に続きます)

*1:レズビアンです。

さらば川原泉(その2):なぜ川原作品はあたしというセクシュアルマイノリティを悲しませているのか

「さらば川原泉(その1):なぜ川原作品はあたしというセクシュアルマイノリティにとって読みやすかった(過去形)のか」の続きです)
なぜ川原作品は現在のあたしを悲しませているのか。理由は2つあります。

  1. 平成の川原作品では、非少女漫画的なモチーフがインフレを起こした後、枯渇してしまった
  2. もともとセクシュアルマイノリティに対する偏見が垣間見えていたところに、最近出た「真面目な人には裏がある」がとどめをさしてしまった

非少女漫画的なモチーフのインフレと枯渇について

平成元年花とゆめ14号で「かぼちゃ計画」を読んだとき、「これは三題噺か?」と思ったのを今でも覚えています。「かぼちゃ・囲碁・検尿」と、非少女漫画的モチーフを3つも使っているのが奇妙だなと。ひょっとして、と思い、「フロイト1/2」(平成元年 花とゆめ4・8号)を読み返してみると、やっぱり「フロイト・提灯・雪山登山」*1の三題噺になっていると気づきました。ゲートボールならゲートボール、農業なら農業とひとつのモチーフだけで話の柱を作っていた昭和の時代の作品とは違い、どこか苦しそうな構造だな、とそのとき感じました。
で、その後。川原作品から、非少女漫画的なモチーフは減り始め、代わりにエピソードを過剰なまでにぎちぎちに詰め込んだストーリーが増えて行きました。その過渡期にあったのが「メイプル戦記」(平成3年 花とゆめ17号〜)です。プロ野球というあまり少女漫画的ではないモチーフを使いつつも、「瑠璃子の恋」・「桜子の魔球開発」・「仁科夫婦の対決」など、多すぎるエピソードを同時進行で詰め込んだこのお話は、結局グダグダになって失速してしまったようにあたしには思えました。それ以降の作品も、昔のように「こんなネタで恋愛物を描くなんてなあ」と感心しながら笑えるモチーフはほとんど無く、あるのはなんだかぎくしゃくした男女カップル話ばかり。平成の川原作品に、もはやあたしという同性愛者がほのぼのと楽しめる余地は無くなってしまったのでした。

川原作品における、マイノリティへの偏見について

実を言うと、「もう川原泉を読むのはやめよう」と決意するに至ったのは、これがもっとも大きかったです。以前から「これはちょっとなあ」と思っていたものが単行本『レナード現象には理由がある』でさらにひどくなっていて、ダメージに耐えきれなくなったんです。

「月夜のドレス」(昭和59年 別冊花とゆめ・夏の号)では「スネ毛は社会の迷惑です」という台詞の元に異性装が断罪され、スカート好きだった少年が「正々堂々と」歩く後を主人公の少女がえっちらおっちら「ついて行く」ことがハッピーエンドとされています。また「メイプル戦記」(平成3年 花とゆめ17号〜)においては、トランスジェンダーと同性愛とが混同されきっています。さらに酷いのは、「Intolerance… - あるいは暮林教授の逆説)」(昭和60年 花とゆめ18〜19号)です。ここでは主人公が、同性愛者を「ホモ ゲイ 性的に倒錯したバイキンくんだ」と罵り、さらにゲイの書いた日記を机に叩きつけて「エイズなんかきらいだっ」と暴言を吐いてさえいます*2。「同性愛者/異性装者/トランスジェンダー/社会の迷惑/『バイキン』/エイズ」等々が混同されているこれらの描かれっぷりは、まさに「偏見のつくだに」であると言えましょう。
それでも、です。ここまで偏見があらわにされているのは圧倒的な作品数の中でわずか3作品だけで、しかもかなり古い作品であるということが、一応の免罪符になっていました。2006年に、「真面目な人には裏がある」が収録された『レナード現象には理由がある』(白泉社ジェッツコミックス)が出版されるまでは。
「真面目な人には裏がある」は、こちらのエントリで既に述べた通り、

  • 無知ゆえの決め付け(「ゲイは子孫を残せない」など)
  • カムアウトを嘲笑する態度(「幻獣バジリスク」)
  • BLとゲイとの混同、あるいは「ホモの反応は予測できる」という偏見(「ホモ判定実験」)

などに満ち溢れた非常に差別的な作品です。もうひとつ問題なのは、この作品が「ゲイを取り囲んで大騒ぎするノンケの内面」ばかりを夢中になって描いていて、ゲイの内面はほぼ完全に無視されているってことです。もっと言ってしまえば、この作品におけるゲイはただの「珍獣」あるいはノンケを面白がらせる「ネタ」でしかなく、人間というより書き割りのような扱いを受けています。ある人物を「ホモ」(作中ではゲイはひたすら『ホモ』と呼ばれています)であると描写するだけで、その人物について全て説明した気になってしまうというのは、セクシュアリティと人格の混同であり、同性愛者を馬鹿にし切った態度です。
少なくともこれであたしは、川原泉の漫画を今後読み続ける気力がなくなりました。大好きな作家さんだったのに、悲しいです。

まとめ

もう川原泉の新作を読んでほのぼのしたり爆笑したり涙を流したりすることはないのかなあ。悲しいなあ。(って、全然まとめになってないけど、とにかく悲しいんだよーうわーん!)

*1:ひょっとしたら、「フロイト・提灯・うで卵」かも知れませんが。

*2:『ゲートボール殺人事件』(白泉社花とゆめコミックス)p178。文庫版では「エイズなんてきらいだっ」は消されているらしい(未確認)ですが。