「許すこと」なんてくそくらえ - 「鏡の法則」について

鏡の法則」を読んで、どうにもうさんくさい話だと思っていたところ、やっぱりカルトではないかという指摘が出てますね。
さて、では、カルトではない宗教では、「許すこと」をどのようにとらえているのでしょうか。下のエントリで取り上げた『リンダの祈り - 性虐待のトラウマからあなたを救うために』(リンダ・ハリディ=サムナー、集英社)に、ちょうどいいエピソードが出ていたので紹介しておきます。
この本の著者リンダ・ハリディ=サムナーは父親による性虐待の被害者で、「加害者を許して忘れなさい」とか、「お父さんを許さなければ癒されない」というようなアドバイスに納得がいかず、苦しんだと書いています(p117-118)。ちなみにリンダの父親はリンダを「虐待し、許してほしいとせがみ、二度としないとも言ったが、また虐待を繰りかえした」(p118)のだそうです。これは、そんな父親を許せないことに苦しんでいた時代のリンダがキリスト教の牧師たちと話したときのエピソード(pp118-119)。


牧師たちとの研修会で、”許し”についての質問がでたことがある。私が「父を許していない」と答えると、一人の牧師に、「あなたは癒されることはないだろう」と言われた。
すると路上で暮らす子どもたちの支援をしている牧師が立ち上がり、言った。「あなたは彼女を批判できる立場にいるのですか。そんな権利があるのですか。もしきちんと聖書を読んでいるのならば、ご存知でしょう。イエス・キリストは自分をはりつけにした人たちに『私はあなたたちを許します』と言ったでしょうか。そのようなことは聖書のどこにも書かれていない。イエスは『父よ、彼らをお許しください。彼らはなにをしているかわからずにいるのです』と神に祈ったのだ。許すのは被害者の役目ではない。加害者は許しを請う人物を間違っているのではないか」
私はそれを聞いて、とても納得し、生まれてはじめてホッとした。許さなければならないという重荷から、ようやく解放された。その重荷は私に課せられるものではないとわかった。
つまり、少なくともキリスト教においては、許すのは神様の役目であって、人間の必須義務でもなんでもないわけです。というわけでやはり、「自分が誰かを許せば救われる=許さなければ救われない」という文脈で人をマインドコントロールしようとするのは、不安と褒賞で人をひきずりこむカルトのやることだよなあと思ったことであったよ(詠嘆)。
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